むのきらんBlog

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一体誰が正しいのか〜映画 「ケイン号の叛乱」批評〜

1954年という大昔の映画だが、非常に面白い。間延びしておらず、あっという間に鑑賞できる。お勧めの映画だ。

海軍ものとして非常に良くできている。企業など、上下関係のある組織の話しとしても、いろいろ考えさせられる。私は、恥ずかしながら鑑賞した夜、企業内での軋轢の悪夢を見てしまった。それだけケイン号の乗員たちに感情移入していたのだ。ケイン号の呪いであろう。 
 

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画像はアマゾンより(アマゾンプライムで観られます)

 

ケイン号の叛乱 - Wikipedia

 
(以下、ネタバレ。映画を見終わった後のお楽しみとしていただければ幸いです。)
(目次)
 
  • キース少尉の描き方は余り意味がない

原作では、新米乗組員のキース少尉の艦内生活をもっと描いているようだ。が、映画の描写は中途半端だ。2時間の尺に入れるために、艦内生活をはしょった一方で、男ばかりの色恋なしの映画に、色気を入れようと制作者が考えたのだろう。
 
上流のお坊ちゃん育ちでマザコンのキースが、海軍生活で成長し、マザコンから脱却し自らの意思でナイトクラブの歌手と結婚する。それを母は祝福する、という描写は、本筋とは関係ない。撮影に協力してくれた米海軍へのごますりであろう。まあ、これは許せる。
 
  • もう一つ、より重要なごますりは、結末部分だ。

 マリク副長(と共同被告のキース)が、無罪判決を勝ち取り、それをお祝いしている最中、弁護士が登場して士官たちをなじる。
 

弁護士の批判はこうだ。

艦長と働くのではなく、艦長を支えるのが士官である。艦長が失敗をして謝罪したのに、謝罪を受け入れなかったのは誤りだ。それが、艦長を孤立させ、嵐の中で助言に耳を貸さなくさせた。一番の悪党は作家の通信長キーファーだ。副長に艦長は病気だと吹き込み、「反乱」を起こさせた。しかも軍法会議では、自分は関係ないと嘘の証言をした。艦長の1割も度胸のない卑怯者だ。通信長たち民間人上がりは、艦長たちが国を守ってくれた。艦長が病気になったのは、その戦争のせいであり、お前らに艦長を批判する資格はない。
 
これに対し、士官たちは一言も反論せず、通信長を置き去りにして宴をお開きにする。
 
  • どちらかが正しいのか

これは、海軍へのごますりである。そして、大きな勘違いがある。それは、Aが卑怯者ならBは英雄だ、ということ。これは、よく使われる詭弁である。
AもBも卑怯者であることも、また、共に英雄であることもあるのだ。
 
確かに通信長は偽証をした卑怯者だ。だが、それは艦長を正当化することにはならないし、士官たちの行為が間違いだったわけでもない。
 
  • 艦長は、当初、決定的な罪を犯した。

それは、訓練中にミスをして曳航索を切ってしまったことを、曳航索が欠陥品であるという虚偽の報告をしたことだ。これは海軍士官としてはあってはならないことだ。
しかも訓練中という実戦さながらの操船を要求される時に、ブリッジからの報告をさせるなと命令し、水兵のシャツの乱れを問題にしている。軍艦乗りが犯してはならないミスである。これらは、艦長にありえないことだとすれば、艦長は病気であると結論づけねばならない。
 
  • 「黄色い染料」事件の本質

そして、「黄色い染料」事件だ。上陸作戦時に日本軍の砲弾に怯えて隠れていただけでなく、命令された地点よりもはるか手前で、黄色い染料を流して、支援するはずの上陸部隊の乗った舟艇に上陸指示を出し、自らはすたこらと逃げ出したのだ。これは明白な敵前逃亡である。
しかも、あと海岸まで3000フィートとの報告に、自ら測距儀を操作して回頭予定の1000フィートであると断定し、回頭を命じている。これも虚偽である。
したがって、あとで士官たちに謝罪したとしても、士官たちは謝罪を受け入れるべきではない。受け入れたら、共犯もしくは、犯罪者の隠蔽に加担したことになるのだ。
この艦長の行為で、上陸部隊の海兵隊員達はケイン号の支援を失い危険にさらされた。死者も増えたかもしれない。艦長を告発すべきは本来は海兵隊員達だ。
 
少なくともこの段階で、副長は艦長が病気であると、ハルゼー提督に告げねばならない。イチゴの盗み食い事件などは、事件そのものとしては全く些細な話である。これは、軍規のためには些細な盗み食いも徹底的に取り締まるべき、という艦長の裁量の範囲だ。
 
なお、イチゴ盗み食い事件については、合鍵ではない単純な盗み喰いであるにもかかわらず、合鍵を探させる行為は異常だ。なので、艦長が理性的な判断力を欠いているという証拠にはなる。
 
  • 艦長が病気かどうかは問題ではない

艦長が病気かどうかの診断は医師の仕事だ。副長の責務として、艦長の重大な軍紀違反を報告、告発し、提督の指示を仰ぐべき事態である。
軍法会議では、副長は医学的知識がないのに艦長が病気だと判断したことを検事に責められたが、ことの本質は医学的知識の有無とは無関係である。
 
  • ハルゼー提督に報告すべきだ

ハルゼー提督が乗る空母に出かける副長、通信士、少尉の3人。下船するには艦長の許可が必要だが、どうやって取ったのかは謎だ。まあ、それは置いておいて。軍規正しく戦争の緊張感あふれる空母に着いてみると、通信士が腰砕けになる。自分達の主張は受け入れられない、「上官に楯突くやつ」というレッテルを貼られ、職業軍人である(?)副長や少尉(大卒の戦時志願による短期促成士官だが)の将来によくない、と言って、告発から一抜けた、となる。それで後ろ盾を失った副長も、腰砕けになり、提督に会わずにすごすごと引き返すのだ。
これは、副長のミス。友人であり同じ階級(大尉)であり、副長の次席のキーファーが一抜けた、となっても、自らの責務として提督に報告せねばならないのだ。
 
たぶん、これを反省した副長が、嵐の最中での「叛乱」の際は、自分が抗命の全責任を持つ、と言い放つ。抗命を咎められて軍法会議にかけられ、無罪となったマリク副長は、謝罪する通信長を「済んだことだ」と許すのだ。
 
自説に固執し、自説に都合の悪い事実や進言を無視する艦長。
それが、嵐の中で、部下の進言を無視する行為につながっている。
 
  • 艦長の軍規違反が問題だ

 以上のとおり、軍人として、艦長として、明らかに不適格な行動をとったわけだから、海軍を守るためには、艦長が病気であるとして届け出ねばならない。病気なのか、一時的で陸上では再現性が不明な発作なのか、それは医者が判断することだ。士官たちが報告すべきは、艦長の軍規違反であり、明らかに非合理的な行動だ。
 
  • 嵐の中で艦長の取るべき行動は

嵐の中で、艦長の行動は正しかったのかもしれない。しかし、それまでの行動は、部下に合理的な疑念を抱かせるには十分だったのだ。
 
艦長が長い海軍でのキャリアを持っていることを、法廷で副長たちは攻撃される。しかし、海軍でのキャリアが長いことと、第一次大戦時の老朽艦の嵐の際の操艦とは別問題だ。長い経験があれば、船にはそれぞれの特性があり、その艦の各部については艦長よりも知っている各部署の進言に耳を傾け、その上で、承認すべきはし、却下すべきはする、それが艦長の役割だ。嵐の中でも艦隊のほとんどは沈没しなかったことも、艦長の判断を支持する材料となっているが、それは精査せねばわからない。他の艦も適切な措置をしたからこそ、多数が生き延びられたのかもしれないのだ。
 
  • 通信長は卑怯者だが、その点で艦長は不適格者であったのだ。

したがって、弁護士の批判は一方的である。軍服は着てはいるものの、後方で護られているのは弁護士のほうであるのだ。民間人上がりであっても、ケイン号の士官達は、戦場で、嵐の中で、生死を賭けた判断を強いられていたのだ。しかも、艦長に逆らうことは、絞首刑になる命を賭けた判断である。安全圏にいる弁護士、検事、などこそが、現場から批判されるべき対象である。(彼らもまた、職務に則って行動しているわけだが、ケイン号の乗員達を道義の面で裁けるものではない。)
 
艦長役のハンフリーボガードの演技は素晴らしい。しかし、これらの踏み込みが足りないがゆえに、本作は、名作というには今一歩であり、面白い海軍万歳映画になってしまった。企業など組織の管理職研修の素材としても良いかもしれない。映画を無批判に受け入れるか、それとも批判的にとらえるか、である。
無能な艦長に生殺与奪の権利を握られた乗員、その絶望的な状況を考えると、私はケイン号の士官達の苦悩に共振してしまう。