むのきらんBlog

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「オバマ原爆拍手問題」への5つの問い~それは「戦勝国アメリカの視点」なのか~

ネットで「オバマ氏が原爆投下映像に拍手していた」という話しが拡散しています。私は「それは日本的な報道であり日本的な見方ではないか」と疑問を述べました。

いまだに「オバマ原爆拍手説」が圧倒的ですが、私の分析にも多数の方が興味をもってくださっています。いくつかありがたいコメントを頂いています。そこで興味深い問題提起をいただきましたので、それを元に5つの問いとして考えてみます。

はたして「オバマの拍手」は「戦勝国アメリカの視点そのもの」なのでしょうか?

 

(目次)

 

「オバマ原爆拍手説」の一例。長谷川豊氏のエントリー。

blogos.com

これに疑問を述べたの私のエントリー。

www.munokilan.com

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画像はpixabay.comより 

 

1.戦勝国として拍手することは、敗戦国の視点を無視した「原爆投下は正義」というアメリカ的視点ではないか?

 「戦勝国として勝利に拍手する」ことと「原爆投下が含まれた映像に拍手する」こと、そして「原爆投下へ拍手する」ことは意味論として違います。

もちろん「原爆投下への拍手」にのみフォーカスする視点はあるでしょう。しかし、それは一つの視点に過ぎない、という点を指摘しておきたいのです。「拍手する側の動機」と「それを見た人の解釈」は、それぞれある意味で等価です。ただし、式典の全体像を無視して「切り取った解釈」を、そのまま正しいものと受け止めるのは、ちょっと危険だと思う。ネットやマスコミの拡散パターンの問題はそこにあるのです。

 

「原爆投下が含まれた映像に拍手しているか」といえば、YESです。ですが、それは、ネットで拡散されている「原爆投下に拍手」していることとは異なります。もしも後者であれば、オバマは演説で触れるはずです。しかしオバマの演説には原爆は出てきません。ノルマンディ上陸作戦の意義を協調し、兵士を讃える演説です。

 

演説の映像はこちら(ご参考まで 25分)

www.youtube.com

演説全文はこちら(ご参考まで)

Remarks by President Obama at the 70th Anniversary of D-Day -- Omaha Beach, Normandy | whitehouse.gov

 

ところで、ここでメルケルが出席していることに注目しましょう。メルケルの出席の意義はなんでしょう。それは、式典が、戦勝国だけの戦勝記念式典ではない。ドイツは敗戦を受け入れ、そしてNATOの一員という同盟国として、今はともに平和と民主主義を守る側にいるのだ、ということを示すための出席でしょう。一方、プーチンは旧連合国(の承継国であるロシア代表)ですがNATOの仮想敵国という複雑な立場です。

 

  • 戦勝国、敗戦国という捉え方で原爆投下を考えることは適切なのでしょうか

ここで考えるべきは、戦勝国、敗戦国という捉え方で原爆投下を考えることは適切なのか、ということではないでしょうか。

私が「オバマは戦勝国として拍手した」と書いたので、「敗戦国の視点は?」という問いが出たのかと思います。改めて考えると原爆投下については、戦勝国、敗戦国という整理は適切でしょうか。あえていえば、被害者(被爆者)の視点で見る、ということが大切ではないでしょうか。つまり戦勝「国」、敗戦「国」という国単位ではなく、その行為で死傷した人の視点こそが重要です。

日本は自らをよく「被爆国」と表現します。それは日本政府の用語としては正しい。しかし考えてみると日本という国家が被曝したのではありません。投下したのは米国政府の意思であることは間違いないとしても、その惨禍を受けたのは、日本という国家というよりも、被爆者でしょう。

原爆投下の本質的な問題は、国家対国家ではなく、国家対民衆(つまり人)と捉えることが適切ではないでしょうか。だから「原爆は人道上の問題」なのです。

 

したがって、「原爆投下を含んだ映像(とパフォーマンス)へのオバマの拍手」について、批判するとすれば、「被爆者の視点からみてどうか」という批判こそ、正当ではないでしょうか。世界には多数の視点があります。その一つとして「被爆者の視点」は重要ですので、その批判は批判として成立しえます。

なお、これを言い出せば「戦勝と解放を祝う各地の映像」への拍手でさえ、たとえばドレスデン爆撃の被爆者からみれば、「戦争犯罪者の拍手」という批判は免れ得ません。

 

2.プーチンは十字を切ったのに、オバマは哀悼を表現しなかったではないか?

  • 本当に「オバマは哀悼を表現しなかった」のでしょうか。

式典の映像が、原爆を機に戦争の惨禍に焦点を合ってたものに切り替わります。そこでオバマは拍手しつづけていたのでしょうか。おそらく、厳粛な表情をしていたものと推定するのが合理的ではありまんか。

「オバマが原爆へ拍手、メルケルが拍手していない、プーチンの十字」という3点セットの報道が果たして、意味として正しいのか。JNNは主観に合う画面だけを切り取って報道したのではないか、という疑念を持っています。JNNがそうでない、と映像ごとにタイムスタンプをつけて証明してくれるといいのですが。

 

  • 政治家の十字

 十字については、現在、とかくキリスト教徒対イスラム教徒の「文明の対立」と捉える見方があるので、オバマが十字を切らなかったことはありうると考えます。静かに厳粛な表情を浮かべるということも一つの表現です。

米国では、公式の場で、特定の宗教について表現することは、慎重に取り扱われる傾向にありますので。たとえば、クリスマスへの政府関係の公式コメントでは、「メリークリスマス」といわず、「ハッピーホリデー」と言う方向にあるようです。

 

少なくとも、広島ではオバマは十字を切っていません。それでも十分に哀悼は表現されています。だからこそ、ノルマンディー記念式典での「オバマの拍手」がオバマ猿芝居説の論拠になっているわけです。

人は報道されたものに反応しがちです。しかし、報道されなかったものについても思いを巡らすことが重要です。

 

3.原爆投下に賛否両論あるのを知っていれば、原爆投下の映像を避けられたのではないか?

原爆には種々の要素があります。したがって「主催者があの場面で原爆映像を選択したのが適切だったのかどうか」については議論の余地があります。そもそも、ノルマンディー上陸作戦は欧州戦の一つの戦闘であるのに、「第二次世界大戦」の終結という、より大きな意義を付与しているわけです。その文脈の中で、原爆も登場したのでしょう。「原爆なしのノルマンディー式典」もありですし、「対日戦なしのノルマンディー式典」もありでしょう。「(対日戦なしで)欧州戦のみのノルマンディー式典」という位置づけならば、それもありだと思います。

 

  • 原爆映像なしの式典であったほうがいいのか

ノルマンディーの式典を「世界大戦の終わり」の式典として位置づけた場合、原爆の映像につづいて惨禍の映像があり、という流れそのものは、第二次大戦をコンパクトにまとめたものとしては評価できます。

原爆投下は、戦争が解き放った巨大な暴力であり、そこには悲劇が生まれた、というふうに理解できます。映像だけでなく、舞台上のパフォーマーの動きも含め、前回エントリーで触れたように、戦争の終わりであり、戦争がもたらしたものとして原爆を表現していると考えます。

ただし、セレモニーの流れとして拍手が必要になるので、それは非常に難しい問題をはらむとは思います。つまり、それが「戦勝への拍手」であっても、「オバマが原爆に(も)拍手した」ととられることは否定できなくなります。

 

4.つまりオバマは政治的パフォーマンスの為に、核廃絶という信念を犠牲にしたのではないか?

映像に原爆投下が含まれた時点で、「原爆投下を含む映像に拍手する」以外のオプションはなくなりました。勝利に拍手することが、最も戦った兵士に敬意を示すことになるからです。それなしでいかに兵士たちを讃えても、彼らには空疎に響くことでしょう。

それを「政治的パフォーマンス」と呼べば、そのとおりです。

 

5.だから広島訪問は何の結果も産まない、単なる利己的な政治パフォーマンスではないか?

オバマが広島で違うことを言えば、核廃絶は進んだのでしょうか? たとえば「原爆投下は間違いであった」とでも言えばいいのでしょうか。それは歴史認識問題がクローズアップされ、対立が表面化される危険はないでしょうか。私はそこを懸念します。

「利己的」とは、オバマ個人のレガシー作りのため、また米国の独りよがり、という両面の理解が成り立ちます。その要素を私は否定しません。しかしより重要なのは、「わたしたちがどう受け止めるか」 ということではないでしょうか。

セレモニー、拍手、表情、演説、これらは全てパフォーマンスです。それは受け手があって初めて意味を持ちます。オバマを批判するのは簡単です。批判すべきないとは思いません。しかし、では「自分がオバマであったら、どう行動するか」ということを考えることが重要であると思います。

「更なる対立を呼んでもいい」と考えるか、「(自分にとっての)100点満点でなければ受け入れない」とするか。それらは、わたしたちの主体的な解釈にかかっています。

「オバマの拍手」は「戦勝国アメリカの視点」かもしれません。それを受け止めた上で、「人道を少しでも実現するためにはどうすればいいか」が私たちすべてへの問いとして残るのでしょう。

 

「人道」に拠ってこそ、ノルマンディー上陸作戦に参加した兵士たちとも、私たちは連帯しうるのではないでしょうか。

 

(文中敬称略)