むのきらんBlog

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自由に考えよう

「おせっかい」をどこまで認めるべきか~「他人の自由」をめぐる愚行権と他者危害の原則~

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​他の人が、良くないことをしようとするとき、それを止めるべきでしょうか? バカだなあ、ということをするとき。道徳的ではないことをするとき、どうでしょうか。どこまでが余計なお世話、余計な「おせっかい」なのでしょうか。

これを考える時のキーワードが「愚行権」と「他者危害の原則」というものです。

 

「愚行権」と「他者危害の原則」とは  

「愚行権」は「他者危害の原則」とともに、Wikipediaで次のように説明されています。

愚行権 - Wikipedia (太字筆者)

愚行権(ぐこうけん、英語: tthe right to do what is wrong/the right of(to) stupidity)とは、たとえ他の人から「愚かでつむじ曲りの過ちだ」と評価・判断される行為であっても、個人の領域に関する限り、誰にも邪魔されない自由権のことである。 

 

ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』(1859年)の中で展開された、功利主義と個人の自由に関する論考のなかで提示された概念であり、自由を構成する原則としての「他者危害排除の原則(英語: to prevent harm to others)」、すなわち他の人から見て賢明であるとか正しいからと言って、何かを強制することは正当ではありえない、の原則から導出される一つの帰結としての自由として提示されたものである。
生命や身体など自分の所有に帰するものは、他者への危害を引き起こさない限りで、たとえその決定の内容が理性的に見て愚行と見なされようとも、対応能力をもつ成人の自己決定に委ねられるべきである、とする主張である。 

 

他者危害の原則は、このようにも説明されています。(太字筆者)

19世紀イギリスの哲学者J・Sミルの「他者被害の原則」だ。他者の身体や権利を侵害しないかぎり、政府は個人の行為に介入できない、という原則。つまり、カジノで賭ける人は他者の権利を侵害するのか。同性愛が犯罪とされていたとき、同性愛の非犯罪化を主張する功利主義者ベンサム達(たち)が立った立場がこの他者被害の原則である。人間の自由を考えると、この「他者被害の原則」は大事である。

 「正しい政策」がないならどうすべきか ジョナサン・ウルフ著 現代の課題を考える手引きに (明治大学教授 土屋 恵一郎)
2017/1/8付 日本経済新聞 朝刊 より引用


なお、日経記事では「他者被害の原則」と書かれていますが、「他者危害の原則」という訳が普通です。もしくは上のWikipediaの「他者危害排除の原則(英語: to prevent harm to others)」が、一番わかりやすいでしょう。

 

つまりは、「おせっかい」はどこまで許されるか、というお話です。

まずここで押さえておきたいのは、 

個人の「おせっかい」と国家の「おせっかい」は別 

ということ。友達が愚かなことをしようとするときに、「やめとけよ」というお節介が「個人のおせっかい」。これは、別にやってもいいのです。なぜかといえば、それは友達の権利を侵害していないからです。あなたが会社の上司で権力をかさに着ていたら別ですが、普通の友達でしたら、友達は「よけいなお世話だよ」ということができるからです。(ま、程度問題ではありますけどね。)

 

一方、問題なのは「国家のおせっかい」。これは、法律で決めたりすると、強制力がつくわけです。それは、個人の自由権利や愚行権を侵害することになるわけです。

 

この違い、とっても大事なんです。しかし、時々、これを混同する方がいますね。自分の価値観を、国会で多数決という法律の力を借りて、他人に押し付けようとする人。本人は、善意なのですが、それこそが余計なお世話っていうもの。もちろん、日本だけではなく、世界中にそういう人はいます。なかには、それが当然の国是、みたいな国もあるわけです。

 

「他者危害の原則」は、他者に危害を及ぼさないならば個人に「愚行の自由」を認めるべきだ、という面と、他者に危害を及ぼすならば、個人の「愚行の自由」を制限すべきだ、という両面があるわけです。これによって、いろんな問題について、国家が「おせっかいしてはいけないこと」、「おせっかいしないといけないこと」、そのどちらかであるかが判断できるわけです。

 

さて、ここで3つほど例題を考えてみましょう。

 

自殺は愚行権か

のっけから難問です。完全に自由意志に基づく自殺というものがあり得れば、あたしは認めてもいいのではないか、と思います。実は、日本の法律もそうなっています。自殺ほう助は罪になりますが、自殺未遂は罪にはなりません。また、「安楽死」もまた、認める国が出てきました。日本もいずれそうなるでしょう。

ただし、多くの自殺は、「完全な自由意志に基づく自殺」とはいえないものです。いわば、「自殺という症状」といってもいいでしょう。失業や事業の失敗などの種々の環境要因が、精神の平衡を失わせて「うつ」などになり、それが進んで、自殺(自死)に至る、というケースが圧倒的です。したがって、自殺は、治療すべき症状、なんらかの救いの手を差し伸べるべき対象、ということができそうです。

 

選択的夫婦別姓には他者危害があるのか

これ、世論調査を見ると、日本では否定的意見が大半ですが、大きく勘違いしてとらえられているようです。「夫婦別姓にする」というのではなく、「夫婦別姓を選べるようにする」という法案なのですが、それを、「夫婦別姓にする」と思い込んで、「家制度などの日本の文化を破壊する」と、思っている方が非常に多いのです。まず、この違いを抑えましょう。

したがって、もしもこの法律が通っても、あなたの夫婦は、別姓にしなければいけないわけではないのです。

 

問題は、「夫婦は一つの姓にしなければいけない」という現在のルールが、他者危害の原則からみて、どうかということ。この点では、現在のルールは、「おせっかい」といえそうです。

その「おせっかい」が正当化されるのは、選択的夫婦別姓が他者危害を生じさせるか、という証明が必要です。選択的夫婦別姓をしている国は、たくさんありますので、直接的に他人に危害を及ぼすことがないのは明らかです。あとは、「家制度」や「文化」に害を及ぼす、とか「戸籍制度が複雑化する」といった、論点です。前者については、それこそが主観的なものであることは明らかです。後者ですが、確かに移行するには、それなりのコストがかかります。しかし、現在、主に女性が、社会で活躍する際に負担している「改姓コスト」などを考えると、十分におつりがくるものでしょう。 

政府は、「働き方改革」の旗を振っていますが、選択的夫婦別姓を認めることは、女性が結婚後も働きやすくなる、働き方改革の方向性ともあっているのです。

 

なお、反対論としてもう一つ「子供がどちらの姓を選ぶかの問題がある」というのがあります。これもまた、子供の自由権を前提に考えるといいでしょう。

 

実は、反対論の前提にある「家制度は日本の守るべき伝統」という発想。この、

「家制度」こそが、働き方改革を阻害している

ということなのです。一つの苗字のもとでのまとまりを重視する家族もあっていいでしょう。一方、夫婦が助け合いながら、それぞれ別の苗字を名乗る家族もあっていい、多様化こそが活力を生む、ということなのです。

そもそも「保守派」が現在の「日本の伝統たる家制度」と思っているのは、主に明治から昭和にかけての「家制度」であり、歴史をひもとくと、日本にも「多様なイエの形」があるのです。「伝統」を論拠にして、他人の自由を制限しようとすることは、要注意ですね。

 

さて、では、

喫煙は愚行権か

タバコを吸うのは健康に悪いことはわかっている。でも、分かったうえで吸うのこそ、大人の特権たる、愚行権の行使ではないか、という主張です。

これについて3つの視点から考えましょう。

 

1.喫煙は中毒である。

喫煙は、習慣性、依存性、中毒性があります。タバコを吸うのは、完全な自由意志ではなく、タバコ会社にからめとられ、中毒になっているのです。タバコを止めようと思ってもやめられない、だから禁煙外来などがある、ということからも明らかです。また、麻薬患者に愚行権はあるか、ということを考えれば答えは自ずと明らかでしょう。

 

2.外部不経済性がある。

要は、他人の迷惑、ってこと。受動喫煙が典型ですが、タバコを吸うことは、無人島でもない限り、「他者危害」を与えます。だから、他者危害の原則からみても、愚行権として正当化できません。

 

3.自己負担ができていない。

愚行権の原則は、他人に迷惑をかけず、その報いとコストを自分が負担する、ということです。タバコを吸うと、税金がかかります。しかし、その税金を超える社会的費用が発生するのです。

喫煙習慣を続けると、統計的には10年ほど寿命が短くなります。それは、「健康寿命」を短くすることなのです。健康な大人は、社会に貢献し、不健康な状態の高齢者、病気、子供など時期のコストを負担します。20才から数えてざっくり40年間ほどの貢献が期待されます。喫煙者はその期間が10年短いのです。一方、子供時代や病気、不健康の長さは、非喫煙者より短いわけではありません。喫煙者の社会的な「生涯収支」は、差し引きマイナスなのです。その分は非喫煙者が負担することなるわけです。その観点で、「たばこ税」を新たに計算したら、ものすごく高額になるでしょう。

たとえば、タバコ1本吸うごとに12分、喫煙者本人の寿命が縮みます。一箱20本で240分、3時間です。仮に1時間の創出価値を700円とすれば、一箱2千百円のタバコ税が必要、ということになるわけです。10箱入りの1カートンだと2万1千円です。英国などの諸外国で、タバコ一箱千円以上という国もありますが、いいところかもしれませんね。

 

(なお、これはごく大ざっぱな計算です。ちなみに、GDPから非常にざっくりと単純計算すると、日本人の生産年齢の大人の1時間あたりの付加価値は570円ほどです。労働時間ではなく、睡眠時間や高齢者などの非就業者も入れたすべての平均です。

計算式は、500兆円÷8000万人=625万円/人 625万円÷365日÷24時間=713円)

 

したがって、喫煙は、「愚行権」として正当化できず、「他者危害」も発生するために、社会的・制度的に強く抑制していくべきものなのです。 

 

まとめ

何を「『愚行』の自由」として保護し、何を「他者危害」として法律などで抑制すべきか。そこには、自分の価値観や思い込みを廃して「それは、他者危害を発生させる、発生するとしてどれほど深刻か。他者の自由を侵害することにならないか。」などの視点が不可欠です。

 

「おせっかい」の正しさをめぐる、「愚行権」と「他者危害の原則」。ペアで覚えておくと、論点を整理しやすくなりますね。