むのきらんBlog

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自由に考えよう

「同性愛は異常」という言葉を大人が使うとき

1.岐阜の自民党県議の発言は、時々見かける、「異常を異常と言って何が悪い。差別とは別で単なる事実だ。」的主張と同じ

 

科学的事実に基づく議論と、政治的社会的文脈での発言は異なる、という大前提を共有することが重要です。前者は、統計学や品質管理での「異常値」というような言葉使いであり、後者は「異常は悪」という意味を含んでいるわけです。

(なお、同性愛が科学的に異常かどうか、という議論は置いておきます。)

 


2.似たような「価値観は人それぞれ。不快かどうかも人それぞれ。それを主張するのも自由だ。」というロジックはどうか

 

これも言論の自由」のはき違え
何が社会的に許される差別で、何がそうでない差別かという議論はあっていいし、あるべきです。しかし、差別的発言はする「べき」ではないということは、大人として押さえるべき。それは民主主義の基盤であるところの「寛容の精神」や「普遍的価値観」の概念とも関連します。

立場を入れ替えたと仮定したら、「あなたはその発言を容認しうるか」というのが、一番分かりやすいチェック方法です。

 

 

3.「立場を入れ替えたと仮定する」という発想や想像力の欠如が、差別発言の温床


高齢化するとその傾向は強まります。しかし高齢であることは免罪符にはなりません
高齢者の立場に立つとそういう狭い発想しかできなくなりがちなことは、理解はすべきです。しかし、「高齢者だから仕方ない」というカタチで年齢を免罪符にすることは、高齢者をある種の子供扱いすることと同じなのです。高齢者も大人として扱い、否は否としてきちんと批判して差し上げるのがフェアです。できるだけ分かりやすい言葉で伝えることは大切ですが。

 

「寛容」という意味は、お互い人として尊重し合うということですが、何が「寛容」かは、なかなかに深いものがありますね。

 

***コメントを頂いて***

●論点1について

Judebonさん 支持と的確なコメントありがとうございます。

1の論点について、私の表現は不正確でした。当該議員は「異常は悪(けしからん)」の文脈で語っていますね。 なのに、それを「異常は異常ではないか」という論点に(意識してか意識せずしてか)すり替えて主張する方が非常に多いことを、私は残念に思います。そこで異常か正常かの科学論になっちゃうのも、論点がずれたおかしな話し。貴殿の分析がより正確です。

 

そういう話者はだいたいのところ、ちょっとした言葉尻をとらえて「差別だ」と糾弾する方々に辟易しているようです。だからこの議員に無理筋な擁護に回っちゃう。その心情もわからないでもないですが、論理としては誤りです。左が間違っていれば右が正しい、というものではないのですよね。

 

結局のところ、誰もが「寛容が大事」というここと。そして「言葉や行動と人格を分けて議論する」ということでしょうね。実際には言葉や行動と人格は分けがたいものです。であればこそ、議論としては分ける態度が、「寛容」の本質です。

それをしない「糾弾者」は、いくら「訂正」や「お詫び」をしても、「心がこもってない」とかいういつもの攻撃パターンになるわけですね。

 

●論点2について

Judebonさん <2.の簡易チェック、「立場を入れ替える」はとてもいい。私もLGBTについては基本コレです。 ただ、これをするには入れ替える立場がどんなものかある程度の知識が必要ですね。>

・・・そうですね。 入れ替える立場については知っておいたほうがもちろん望ましいのですが、このチェックのいいところは、「知らなくても一応できる」ということだと思います。 たとえば、LGBTについて深い知識がなくても、もしも自分がそちらの立場だったら、という「ありったけの想像力」を発揮すれば、このような発言はしなくなると思うのです。

 

問題は、そういう想像を「ありえん」として拒否する態度であるわけです。「ありえん」かどうかは、想像には全く関係がないのですが。

 

なお、これはもちろん、ありがちな誤解ですが、たとえば犯罪者を「犯罪者の立場を想像してみて、免責せよ」ということではありません。そこのあたりの誤解には要注意なところですよね。