むのきらんBlog

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裁判の目的を間違えてはいけない~福島第一原発事故を巡る強制起訴~

福島第一原発事故に関して、東京電力の元会長ら3人が強制起訴された。

「法廷で真相を」「再び事故を起こさぬために」などの声が報道される。

裁判ならば、真相が明らかになるのか、事故が減るのか。

 

(目次)

 

日本経済新聞2016年3月1日では、識者の見方として「公開の場での審理に意義 」という主張が載っている。

 四宮啓・国学院法科大学院教授(司法制度) これだけの大事故で、電力会社の経営陣の注意義務の程度や有無が明らかにされるのは重要だ。本来その判断をする権限を持つのは裁判所。検察の不起訴により国民の目が届かないところで終わるのではなく、公開の法廷で様々な証拠を検討して結論を出す道が開かれたことに意味がある。

 起訴を「有罪にならなければ意味がない」との視点でとらえるのは適切ではない。公判でどれだけ新たな事実が判明し、どれだけ注意義務について国民的な理解が深まるかという点で評価すべきだ。

 

松田公太議員もこのように裁判に期待している。

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 今後の裁判では、こういった新証拠の存在などによって事案の真相の解明につながる可能性があります。事故原因の究明も期待されます。

 

  • 裁判は真理を探究する場ではない

ちょっと待ってほしい。

確かに、裁判で新たな証拠が出てくる可能性はないとは断言できない。しかし、裁判は、真理を追究することを目的とする場ではない。あくまで刑事裁判は、被告を有罪か無罪か,有罪ならば量刑はいかほどかを決める場であるのだ。

 

もちろん、被告人側は無罪を主張し、それを正当化する、許される範囲であらゆる法廷戦術を使う。検察側は、有罪にすべくこれまた知略の限りを尽くす。

仮に、被告人側が自らに不利な証拠を持っていても、それを積極的に明かす義務はない。(もちろん偽証は犯罪だが)。

 

つまり、法廷は真実を明らかにするにはふさわしくない場なのだ。しかも、傷つくのは一方的に被告だ。刑事で起訴されただけで、強いストレスを受けるのだ。

 

いわば拳銃を突きつけて、納得できる説明がなければ撃つぞ、と言っているようなものである。そして、納得できる説明があっても撃つぞ、と言っているわけ。

あなたが、被告の立場なら、真実を答えるだろうか。

 

法廷は、公平な状況で真実を明らかにする場ではない。いわば賭け金が、検察側と被告側で異なる賭博のようなもの。被告の側だけに賭け金を積ませているようなものだ。

そしてまた、一定のルールの下に、攻める側、守る側を決めている。スポーツと異なるのは、検察と被告が攻守を交代することは絶対にない、ということだ。

つまり「共に真実を探求する」という場ではないことは明らかだ。

 

  • 裁判では事故は減らない

「法廷で真相を」「再び事故を起こさぬために」といわれるが、裁判では、真相が明らかになるか、事故が減るのか。もう答えは明らかだろう。

法廷せは、真相は明らかにならない。また、刑事訴追は、事故の再発防止にはならない。むしろ、事故を決して起こしてはならない、事故はあってはならない、ミスはあってはならない、という無謬神話を生む。そして、場合によっては、訴追を恐れた、隠蔽や証拠の改ざんなどが起きることもあるわけだ。

 

 このような法廷の問題点は、既に明らかになっている。したがって、法廷とは別の場で、時には刑事民事の免責を与えた上で、再発防止のための事実探求の場が設けられるのが、時代の方向である。

 

司法の性格と限界について少し勉強すれば、このあたりのことは常識である。この「司法制度についての識者」は、それらを無視して、法廷を目的外使用することを推奨しているのだ。

 

 

次のエントリーは、法廷の問題点と強制起訴に至った理由を述べている。前者については、私の主張とほぼ同様だ。しかし、後者については、

そもそも、刑事司法の手を借りなければ、真相が十分に明らかにならないというのでは、やはり、当事者による説明責任が果たされていない、と言わざるをえません。

検察が一旦、不起訴にしたにも関わらず、一般市民で構成される検察審査会が起訴するのが相当であると判断した背景には、そうした説明責任の不十分性が大きく考慮されているように思います。

 つまり、説明責任が不十分だ、と主張している。これは、強制起訴に至る、一般の国民感情としては理解しうる。いわば「納得できない」ということ。

 

 

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  • 裁判でも納得は得られない

では、どうなったら納得するのか。

先のJR西日本の裁判で、強制起訴されたJR西日本の元役員達が高裁で無罪になった。それで真実が明らかになって、世間は納得したのか。マスコミは、遺族の「納得できない」という声を大きく取り上げてはいなかったか。

 

つまり、災害や事故をだれかのせいにして、刑事罰が下されないと、どれだけ論理的、客観的に説明されたとしても「納得できない」というのが、被害者感情国民感情というものだ。


これは、沖縄の基地問題も同じだ。どれだけ、基地の必要性や辺野古移転しかない、ということを論理的に説明されたとしても、沖縄県民は納得しない。「説明責任が不十分」という言い方によって。

 

裁判は、法的に決着がつくだけで、被害者や国民が納得するものではないのだ。

 

  • 自分が被告になることへの想像力

これは被害者の感情としては、理解できる。しかし、このようなことは、やはり不幸な結果を招く。ではどうすればいいのだろうか。

 

解決の鍵は、自分が逆の立場に立たされた場合を考える想像力である。国民一般は一般は、被害者の悲劇を強調するマスコミの扇情的報道に流されてはならない。被害者の痛みを共有することは大切だ。それとともに、普通に働いている自分達が「加害者」とされることについても想像力を発揮すべきだ。そのことで、客観性が生まれる。

できうれば、「被害者」にもそのような視点を持ってもらいたい。それこそが社会に不可欠な寛容性である。

 

東日本大震災では、2万人が犠牲になった。そして多数の裁判が起こされている。避難誘導の誤り等、管理者、教師、上司などの責任を問うものである。裁判を起こすべきとは言わない。しかし、自分が逆の立場ならば、適切に行動できただろうか、ということを自らにも問うて欲しい、とも私は思うのだ。だれものが全能無謬の神ならぬ人の身である。

やり場のない怒りや悲しみを、裁判で被告に向けるのは、時に不幸な刃となるのだ。