アメリカのテレビドラマ『24 -TWENTY FOUR-』。シーズン1は、2001年に放映されましたが、今見ても、あっという間にのめり込ませるものを持っています。
今回は、対照的な2人の善玉主人公、CTU(テロ対策ユニット)のジャック・バウアーと民主党の大統領候補であるパーマー上院議員の家族をめぐる価値観を考えます。
(最小限のネタバレあり)
まず、パーマー上院議員から。
パーマーの価値観
信頼あっての家族だ。信頼がなければ愛がなく、愛がなければ家族とはいえない。
信頼の前提は、嘘をつかないこと。それらの正義が第一。目的がいかに崇高であろうが、手段が正しくなくてはならない、という発想。
つまり。正義>家族
パーマーで思い起こさせられるのは、往年のフランク・キャプラ監督の名画
「スミス、都にいく」
この映画では、善良な田舎の青年であるスミス(ジェームズ・スチュワート)が、正義を実現するために上院議員になる。汚職や罠に対して、たった一人でも立ち向かう姿を描いています。
ここで表現された、アメリカの理想を体現するのがパーマーです。
この「スミス 都会に行く」など、アメリカの「良き伝統」を体現する映画たちは、感動ものです!
(両方の画像はamazonより。)
一方、ジャックは「もう一つのアメリカ」の体現者です。
ジャックの価値観
愛があろうがなかろうが、家族は最優先に守るべき存在だ。家族であるから家族なのだ。
つまり家族至上主義。
家族>アメリカ大統領候補>法律その他
となる。ジャックはもちろん、パーマー議員を暗殺から守ろうとしますが、それでも優先するのは自分の家族です。
正しい目的は、手段を正当化する、という発想。
ジャックはいわば現実主義者、パーマーは理想主義者、といえるでしょう。理想のためには現実を捨てるのが理想主義者であるからです。
ただしジャックもまた、パーマー的な側面も持っています。CTU内で汚職をした2人を密告した過去がある。そのことで周囲から疎まれることがあっても、正しいことをせねばならない、というのがジャックのスタンスです。ただし、それよりも上位にくるのが、家族、ということです。
さて、では
大統領ではどちらが誰に似ているか
オバマ大統領:史上初の黒人大統領をめざすパーマー上院議員は、オバマ氏を念頭に置いたのか、と思わせるくらい、似ています。しかも、不正を憎み、清潔、というスタンスも同じです(オバマ氏もスキャンダルとはほぼ無縁でした。)。もちろん所属は民主党です。
しかし、オバマ氏が上院議員に当選したのは、2004年、大統領になったのは2008年。
オバマ大統領の誕生は、 今でこそ、やや色あせて見えるものの、ある意味、歴史がテレビドラマに追いついた、といえるでしょう。
ただし、現実のオバマ氏は、現実主義者の側面も持っていることも、忘れてはいけません。とはいえ、たとえば、オバマ氏が命じたオサマ・ビン・ラディン容疑者の殺害作戦パーマーが命じた旧ユーゴの虐殺者の殺害作戦と似ています。
米国における理想主義とは、あくまで、「功利主義的理想主義」という側面があります。パーマーが理想を優先したのは、家族から自分が裏切られた、と感じたから、ともいえましょう。
トランプ大統領:目的は手段を正当化する、という点で、ジャック・バウアー型、といえるでしょう。トランプ大統領にとては、米国憲法も法律も、単なる手段に過ぎません。拷問などの手段も必要ならばためらいなく行う、というのも共通する価値観です。
目的か手段か
目的が手段を正当化する(つまり正しい目的のためには、悪事もしていい)というのは、実はテロリストの論理です。テロリストは、自らが正義と思ったことを、実行します。そこには手段を選ばない、というわけ。
一方、目的がいかに正しくても、間違った方法をとってはだめ、というスタンスもあります。「手続きの正当性」の論理、とも言います。
または、役人や官僚主義の論理、と言ってもいいでしょう。そういうとイメージが悪いのですが、民主主義社会は、この「手続きの正当性」を大きなよりどころとしています。
最小限の法則
ここで、よく使われるのが「最小限の法則」。たとえば、正当な目的のための武力の行使は必要ならば行っていい。ただし、最小限でなければならない、ということです。
「正当防衛」が認められるのも、この論理によるものです。
しかし、「最小限」というのがなかなか難しいのです。単純に10人を生かすためなら、一人の命を犠牲にしていい、という単純化ができない問題がさまざまです。(この例題も、よく考えると難問なのですが)。
ジャックは、正当防衛の範囲をかなり広くとっている。パーマーはやや狭くとっている、という違い、と見ることもできます。それでも、人の命がかかった場合は、パーマーも、法を曲げ、政治的な力を行使することに躊躇しません。そうなると、パーマーもジャックも、似たり寄ったり、といえなくもないかもしれません。
そもそも、正しい目的とは何か
という難問があります。ここについては、別の機会に触れますが、「立場の互換性」というキーワードがあります。
ここまで見てきたものは、いずれも難問です。単純には正しい答えが出ない問題ですね。
現実の問いはなにか
何かを一番大事にすることは、他の大事な何かを捨てることです。もちろん、その捨て方は最小限でなければなりません。とはいえ、2者択一のシチュエーションはありえます。そして、一度妥協したら、次々と妥協する、ということにもなりえます。そこに悩むのが人間なのです。
幸いなことに、現実生活、現実社会は、テレビドラマとは異なります。ある意味、もっと悪い選択肢が満ちあふれています。
ジャックやパーマーが突きつけられたような究極の選択肢ではなく、「もっと悪い選択をしないようにする」ということが、一番大事だと思います。
たとえばですが、「トランプ大統領」か「ヒラリー・クリントン大統領」かという選択肢は、ジャックかパーマーか、よりは遙かに自明な選択肢であったと思います。残念なことに、米国民のほぼ半数にとってはそうでなかったようです。
ヒラリーの電子メール問題などといった、比較の問題として非常に矮小な問題が、ヒラリーの足を引っ張ったわけですから。(ヒラリーの敗因は他にもありますが)
もっと悪い選択肢を、いい選択肢であるかのように思い込んでしまうのが、ポピュリズムの怖さです。今や、それが世界を震わせています。