むのきらんBlog

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観客は愚かな演技を嫌う~ドラマ「24」~

テレビや映画を観ていて、「愚かな行動」でイライラすることはありませんか。ストレス解消のために観ているはずなのに、「なんでこんな馬鹿なことをするんだ」って、かえってストレスが溜まること、ありますよね。

 

「24(トゥエンティ・フォー)」というアメリカのテレビドラマ。大統領暗殺をめぐる、CTU(対テロチーム)と犯人との行き詰まる24時間を描いて大ヒットしました。

観だしたら、止められません。次々と次の回を観て、24時間(実際には、CMタイム用の飛ばし時間があるので、正味16時間くらい)、画面に釘付けになってしまいます。

とはいえ、観ててイライラする瞬間もあります。たとえば シーズン1での・・・

 

主人公(ヒーロー)の娘の行動はイライラさせられる

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(画像は失礼して24シーズン2|アドバンスホームズ 池袋の日常より)

 

主人公であるCTU(テロ対策ユニット)チーフであるジャック・バウアーの娘のキンバリー・バウアー(エリシャ・カスバート)。

・テロリストに拉致されたところから脱出しようとしたところで、思いとどまっちゃう。(なんで逃げないのか(怒)と観客は思います。)

・隠れていろと父親に指示されたのに不用意に出て行って、敵に居場所をさらしてしまう。 

などなど。観客から見れば、娘の愚かで直情的な行動にイライラさせられます。(もっとも、後半では「賢い行動」も取るのですが。)

それぞれの「愚かな行動」には、それぞれ情緒的にはもっともな理由があるのですが、それを感情移入する観客は少ないのではないでしょうか。 

「キンバリー・バウアー」でグーグル検索をしようとすると、「キンバリー・バウアーうざい」が検索語候補にすぐに出てくることも、観客のストレスを物語っています。(もちろん、彼女を演じたエリシャ・カスパートが「うざい」わけでは全くありません。)

 

愚かな行動をするのは女性、子供、素人

愚かな行動をする人は、女性、子供、素人です。昔のアメリカ映画では、女性は「金切り声を上げてパニクるか、失神するか」という定番の反応がありました。さすがに最近は女性の描き方も多様化してきて、「愚かな素人女性」と「プロフェッショナル女性」に描き分けていますが。

一方、素人がプロっぽく拳銃を使いこなしたりしたら、それはそれで全くリアリティがありません。

 

観客は神の視点で観ている

観客というのは難しいものです。「素人」であるはずなのに、ドラマを見るときは、神というかプロの視点で見てしまうのです。自分もパニクるかもしれないのに、パニクる演技を観ると、「愚かだなあ」と感じてしまうのです。

もちろん、「プロ」の「愚かな行動」への厳しい評価はいうまでもありません。銃撃戦で遮蔽物から出て行って、あっさり撃たれちゃう、みたいな演技や演出は「糞」ですね(お下品ですみません)。

 

愚かなキャラクターは、作家が好む

こういうイライラさせる「愚かな行動」や「愚かなキャラクター」が、結構テレビや映画でしょっちゅうあるのはなぜでしょうか。

それは、作り手が好むのです。彼らがいないと、物事がうまくいきすぎるのです。作戦は予定どおり進行するのです。出来過ぎでは、ドラマにならないわけです。

 

愚かなキャラクターは不可欠なのか

では、愚かなキャラクターがいないと、ドラマは成立しないのでしょうか。そんなことはありません。

例えば、「携帯電話の着信音」。主人公が敵に隠れているところに、パートナーから電話がかかってくる、電話の呼び出し音で主人公の位置が敵に発見されてしまう。

これは、パートナーが愚かなのではありません。あえて言えば、携帯をマナーモードにしなかった主人公のミスといえるかもしれませんが。

 

コン・ゲーム(詐欺)の映画で有名な、スティングでは、賢い、プロの登場人物が、まんまと、巧妙な詐欺にひっかかってしまいます。自分は賢い、という過信が、落とし穴に自らを誘導してしまうのです。

この映画の気持ちいいところは、ひっかかった相手が「愚か」ではない、というところです。

 

イライラさせずにハラハラさせて

観客をイライラさせず、ハラハラ・ドキドキさせる、そういう演出が好きです!

 

とはいえ、24、やっぱりオススメです!

ハラハラ・ドキドキもたっぷりです。

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(画像はアマゾンより) 

 

放送作家の意識しない差別~タレントとの「越えてはいけない境界線」とは~

あぎゃ~ 見つけちゃった。

本人が気がつかない妙なエリート意識ってやつを。そこに潜む差別意識ってのを。それは、いったいどこにあるのでしょうか?

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(写真はエントリーとは別人。茜さやさんです。) 

 

ある放送作家のエントリー。いったい、どこが「問題」なんでしょうか?

一般人のブログでしたら、別にスルーなんですが、BLOGOS編集部に依頼された記事で、しかもコメント不可、というなんとも言論サイトとしてのBLOGOSの編集部と書き手の姿勢が残念ですので、あえて取り上げさせていただきますね。 

西原健太郎さんのこのエントリー。

 

blogos.com

 

エントリー自体は、放送作家という仕事に興味のある人、放送作家になりたい人にむけて、ラジオ放送の現場や、放送作家の仕事ってこういうものだよ、ということを教える内容です。タレントに近づきたいから放送作家になる、という発想じゃだめだよって言ってるわけ。それはそれでいいんですが・・・

問題なのはここ。(太字はあたし)

 

たまに「放送作家は、タレントさんと仲良くなれていいね」みたいな事を言われたりしますが、これも誤りです。もちろん現場では仲良くしますが、タレントさんは芸能人であり、我々はスタッフです。そこには越えられない、越えてはいけない境界線があるのです。いないと思いますが、「タレントと付き合いたい、結婚したいから放送作家になりたい」と考えている人は、残念ですが諦めてください。

 

え? これのどこが問題かって???

 

越えてはいけない境界線ってなに?

別にそんなもん、ないでしょうが!

たとえば、タレントとファンの関係で、熱狂したファンがステージに乱入する、っていうようなことはありますよね。舞台と客席には、越えてはいけない境界線があるよね。

でも、スタッフとタレントって、別に越えてはいけない境界線なんかありません。

 

たとえばね、スタッフが、

タレントと結婚しちゃだめですか?

身分が違うんですか? 別に全然オッケーですよね。

実際、いっくらでも例があります。ディレクターとタレントとかもね。もちろん、付き合うのもありです。打ち上げとかの飲み会もありますしね。

 

実は放送業界って、他の「業界」と同じく、けっこう閉じた業界で、関係者の中でくっついたり、結婚したり、って非常によくあることです。一緒に長い時間を過ごして、時にはロケという名の「出張」もして、共通の話題や感覚を持っていて、てなったら、くっつくのはごく自然な話。

 

ついでにいえば、CIA(米国中央情報局)もそうなんだとか。そのほうが秘密が保てるんだって、ホントかしらんね。アメリカのテレビドラマや映画の中では、よくそういう設定がありますけどね)。

 

じゃあ、

越えてはいけない境界線ってないのか?

といえば、それはあります。

公私混同ってやつ。

たとえばね、プロデューサーとかが、売れないタレントを番組で使う代わりに、○○を強要するっていうようなこと。これ、パワハラとかセクハラです。

その境界線は、スタッフとタレントじゃあなくて、「公」(お仕事)と「私」(プライベート)にあるわけ。パワハラってほどじゃなくても、タレントに「ファンなんです」ってサインをもらう、なんていう素人っぽいことは、かっこ悪いし、(陰で)白い目で見られますよね。(でも、ありますけどね)

 

でね。このエントリーの問題はっていうと。

実はすごい差別意識が隠れてるかも

ってこと。

この放送作家さん、ひょっとして、タレントを「特殊な人たち」と思っていない?

自分たちスタッフとは別の「種族」って思っていない?

スタッフとタレントは越えてはいけない一線があるとすると、じゃあタレント同士ならば一線がないのかしら。まーさか、「ドラマでラブシーンを演じた二人は、収録が終わったあとも、その続きをやるのが当たり前」なんて思っていないかしらね。(そういうことになるケースも皆無じゃないけどね)

 

操る側と操られる側

この作家さんの意識は、スタッフである自分たちは、黒子として後ろからタレントを操る存在、っていうことではないかしら。もっと悪くストレートにいうとね。

水商売や風俗系で「黒服」がキャバ嬢などの「商売モノに手を出すな」っていう話があるでしょ、そんな感じ。タレントを「商品」と思っている、ということ。

もちろんタレントは商品ではありません。放送作家が台本を売っているとすれば、タレントは「作り込んだキャラクターを売っている」というだけのことなんです。収録が終われば、スタッフもタレントもありません。両方とも、「生産者」なんですよ。だから、両方の職種の間に、越えてはいけない境界線なんてありません。

 

じゃあ、 

「種族」としての境界線はどこにあるの?

役割というか立場をめぐる明確な境界線は、そこにはなくて、生産者と消費者(視聴者、聴取者など、つまり普通のひと)にあります。

それは、たとえば、飛行機でのCA(スッチー)と乗客、病院での看護師と患者の距離みたいなもの。その組み合わせよりもくっつくケースがはるかに多いのは、航空会社の社員同士、病院のスタッフ同士、です。 (タレントがCAと結婚、ってのはだから話題になるわけ)

 

ついでにね。もう一つ、境界線があります。それは、

「局」の人とその他。

放送関係者といっても、キー局の正社員(「局の人」、「局員」)とその他に大きく分けられます。圧倒的に強い立場にあるのは、「局の人」。なにせ規制業種なので、雇用と収入が安定しています。

一方、「その他」は、放送作家や制作会社の人など。タレントもそこに含まれます。下請け、外注先であり、雇用形態もフリーだったり、非正規だったり。彼らの中で立場が強いのは、ごく一握りの売れっ子だけ。

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差別と気が付かいないのが差別意識ってやつ。

差別する人に、「自分は差別主義者だ」って思っている人は、あんまりいません。それが差別の難しいところ。そこに気がついてほしいな、と思うんです。

 

だからといって、差別だ! 糾弾するぞ! っていうつもりはありません。いわゆる「ポリコレ棒」(ポリティカル・コレクトネス、政治倫理的に正しい主張を振り回すこと)を振り回すつもりはありません。

これくらいの、軽~い差別意識は、実は結構だれにでもあること。本人には、当たり前すぎて、なかなか気が付きにくいことなんですよね。だから難しいんです。

あたしにもきっといろいろあると思います。

気が付きにくいからこそ、ちょっと考えたほうがいいかな、と思うんです。

 

 

なお、もちろん、放送作家にもいろいろいますから、「放送作家は差別意識を持っている」なんて言うつもりはありません。好意的に見れば、この方も放送作家という言葉のプロとして「読者の目線でわかりやすく書いた」のかもしれません。

けどね。言葉のプロだからこそ、きちんと物事の本質を見極めなきゃいけないよ、と思うのよね。

 

西原さんも、直接問われれば「そういうつもりじゃありませんでした。勘違いして放送作家を志望しないようにね、という趣旨のエントリーです」と言われると思います。しかし、この方(か、BLOGOS編集部か)は、あたしがBLOGOSの大きな価値だと思うコメント欄を意図的に閉じているのです。つまり、「放送」と同じ、流しっぱなしで、読者の返信は受け付けないよ、という姿勢なんですね。残念ですっ。

  

 

お弁当、温めますか? でドキドキできますか?~どきどきするのは、どういう時か~

どきどきすることって、近頃ありますか? 

ドキドキするって、どうしてなんでしょうか。

dkdkしたい人、寄っといで!

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まず、「ドキドキ」の古典だと思う例を一つだけ。

「白鳥の歌なんか聞こえない」という小説があります。

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画像:新潮文庫

 な、なんと1971年の庄司薫という人の小説。

当時の最先端の風俗を背景にした、「切ないほど静かで、不思議に激しい、現代青春文学の金字塔。」とも、「ラノベ(ライトノベル)のご先祖様」、とも呼ばれています。

 

小沢さん、由美ちゃん、主人公の19歳で浪人生の薫くん(カオルくん、作者と同じ名前ね)は、ふとしたきっかけで、女友達である由美の先輩の小沢さんという女性の、病床にあって死に瀕している祖父の家にいくことになります。3月の冷え込む深夜、物音一つしないその家で、小沢さんと二人、時を過ごします。

そのときに、小沢さんが、「全く物理的に寒いので、純粋に物理的に温めてくれない」と薫くんに頼みます。薫くんは、腕を小沢さんの肩に回して、小沢さんを温めます。(暖房つけないのかよ!っていうつっこみは、なしです。当時だって、暖房くらいはあります。)

ここ、非常にスリリングな場面ですよね。年上の女性である小沢さんは、初対面の薫くんに恋愛感情があるわけではありません。由美のボーイフレンドであることも重々承知です。

薫くんも、別に小沢さんに恋愛感情を持っているわけではありません。彼が「好き」なのは、由美なのです。

それでも、二人は、スリルを感じ、スリルを共有します。

 

これなんですよね! ドキ・ドキって!

恋人と手を握ってドキドキするでしょうか?

幸せは感じるでしょうが、ドキドキとは少し別物。それよりは、恋人でない人と手を握るときに、人はドキドキします。ときめく、とも言いますね。

 

もちろん、相手がプロ(いわゆる水商売や風俗)であれば別、なんでしょうね。あたしはよく知りませんがっ。

そういうプロでなくても、たとえばプロのマッサージを受ける時に、そういうドキドキはありません。もちろん、相手もプロですから、ドキドキなんてしないわけです。疲れちゃいますからね。

 

ドキドキが発生するのは、素人同士、恋愛関係未満が、別の理由(大義名分というか口実でも)で、手を握ったり、接触することで生まれます。

 

恋愛テクニック界隈で有名な、あの、

吊り橋理論

というのがあります。危険を共有する感覚、ドッキンっていうのが、恋愛感情に転換される、っていう法則です。脳科学的にそうなんですって。

吊り橋では、ついでに「危険を回避する」っていう「口実」で手をつないだり、肩に手を回したり、っていう自然なボディタッチができちゃう、っていう便益も、もれなくついてきます。

 

でね。吊り橋の上でなくても、素人が「仕方なく」そうする時に、ドキドキは、発生するのです。

 

共同作業、一緒になにかする、一緒にいる、ということは、それだけでドキドキ、なんです。

だから、シェアハウスやルームシェアはオススメなんです。

 

結婚して初めて同居する、というのが日本では普通です。しかし、それはちょっともったいない。

まず、同居して、で、必要になったら結婚する、でいいじゃないですか。

 

同居してみないと判らないことが沢山あります。いびきをかくかどうか、とかね。

いびきはともかく、日常の生活習慣のすりあわせが大切です。それがないと、ストレスが発生します。

 

一旦、婚姻届を出すと、よほどのことがないと、離婚はしにくいもの。それよりは、気楽に同居しましょう。

 

って、なんだか話があっちこっちになってますね。

名曲にもありました。 

ユーミンの14番目の月にもドキドキ

松任谷由実に「14番目の月」という曲があります。

15番目の月っていうのが満月。ゴールイン、相思相愛、恋愛満願成就ってこと。

14番目の月は、そのちょっと前、まだ告る前、みたいな。そこが一番スリリングだし、恋愛の醍醐味だよっていう曲です。

この曲にも、土器土器のいろんなシーンが詰め込まれてるよ。 

 

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でね。

さっき、プロとの間はドキドキできません、て書いたけど、それと矛盾するようだけどね。

ドキドキは一方的にできるんです。

ドキドキは一方的にできちゃうんです。相手がなんとも思ってなくても、自分が勝手にどきどきするのは、相手に止められないわけ。ま、DOKIDOKIしてるのをさとられるのが いいかどうかは、ケースバイケースですけどね。

 

だから、DKDKしちゃおうよっ。

 

いつもいくコンビニで、ちょっと気になるあのこでもいいからさ。

お弁当、温めますか、でどきどき

「お弁当、温めますか?」って聞かれて、「えっと。あの、あっためてください!」って答えてみてね。

でね。そこの「言葉」の言い方がポイント。その時、普通以上、異常以下、がポイントです。普通なのか、そうでないのか、がわからなくて、店員さんが、え? ってなるくらいが「適温」です。やる前にちょっと試してみてね。

何かが生まれるかも? たぶん生まれないけどね。でも、それでいいんです。ドキドキできますよっ。

間違っても、急激に間合いを近づけようとして、「自分も温めてほしいんですっ」なんて言っちゃだめだよっ。コンビニ中が絶対零度になっちゃうからね。

 

ちょっとした意外性をみつけて、ときどき、どきどき、しようよねっ!

生きているのが、ちょっと楽しくなりますよっ!

 

究極の選択肢~ドラマ「24」~

アメリカのテレビドラマ『24 -TWENTY FOUR-』。シーズン1は、2001年に放映されましたが、今見ても、あっという間にのめり込ませるものを持っています。

 

今回は、対照的な2人の善玉主人公、CTU(テロ対策ユニット)のジャック・バウアーと民主党の大統領候補であるパーマー上院議員の家族をめぐる価値観を考えます。

(最小限のネタバレあり)

 

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人工知能は加速する~AIはターミネーターになるか~

人工知能(AI:Artificial Intelligence)の未来はどうなるだろうか。

人類の忠実な僕(しもべ)や友人になるのか。それとも、映画「ターミネーター」の描く「スカイネット」のような、人類を絶滅(ターミネート)させるターミネーターになるのか。

AIはターミネーターになるかもしれない。

(目次)

 

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映画「ターミネーター」画像はAmazon CAPTCHAより

 

  • 加速化する未来

AIは今はよちよち歩きの段階だ。専門家によればまだまだネズミよりも遙かに下といわれる。

が、近々、技術的ブレイクスルーが訪れるだろう。すると、幾何級数的にAIは賢くなる。専門家が難しいという人間並みの「常識」の取得は、比較的簡単にクリアされるだろう。それは単に現時点では難しく見えるだけに過ぎない。 デジタル化された膨大な画像、文字、音声を学習していく過程で、AIは自らの誤りを発見し、「学習のしかたを学習していく」だろう。

 

  • 人類こそターミネーター

現在、人類は史上最大の繁栄を享受している。70億の人口と伸び続ける平均寿命がその証だ。 その一方で、温暖化(気候変動)を始めとする環境破壊は急激に進行し、臨界点を超えつつある。 未曾有の干ばつ、ハイパー台風、干ばつ、洪水、高潮が人類を襲うだろう。その結果として、食料難、水資源の枯渇、すみかを奪われた大量の難民の発生などなど、直接間接に、危機は到来する。そのことがまた政治的な危機を呼ぶ。

 

現在でも、北朝鮮の金正恩氏などが核のボタンを持っているのが、リアルな現実だ。トランプ氏も持つことになるかもしれない。

つまり、人類こそが人類のターミネーターの第1候補なのだ。2100年に人類が絶滅することはないだろう。しかし、振り返ってみると、2016年が人類史上最も幸せな時だった、という風に見られるかもしれない。

未来は決まっていないのだ。

 

  • AIの進化を止めるべきではない

AIは諸刃の剣だ。しかしその進化を止めることはできないし、止めるべきではない。

残念ながら、前述の危機を回避するには、現在の人類は余りにも無力だ。

AIは、人類を賢明にすることを助けることができる。

戦争の回避はできないかもしれない。しかし、資源の浪費を避けることができる。無駄を押え、資源を最適に配分することで、CO2のゼロエミッション(排出ゼロ)も実現できる。卑近な例では、タクシーの走行距離の半分は、空気を乗せている。これを最適化すれば、タクシーの必要とするエネルギーは半分で済むのだ。

 

つまり、

  • AIの進化を止めた時、人類の進化も止まる

AIはターミネーターになる危険をはらんでいる。その危険とは真剣に向き合う必要がある。AIと賢明な対話を行い、人類を絶滅させるのではなく、人類が栄えることを手伝う、人類と共存する賢明なAIになってほしい。人類は、AIと、そしてもちろん地球上の生物たちと共存に値する賢明な人類にならねばならない。

 

かわいいだけでは生きていけない。可愛くなければ生きている価値がない。だよねっ。

 

関連URL

blogos.com

 

www.ai-gakkai.or.jp