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ノルマンディー上陸作戦の誤解~映画とオマハ・ビーチの本当の意味とは~

ノルマンディーといえば、映画「史上最大の作戦」などで有名です。「プライベート・ライアン」でも、オマハ・ビーチでの激戦が、まるでその中にいるみたいに表現されています。

ところが、ここに、激戦地オマハ・ビーチと上陸作戦への「歴史認識」にありがちな誤解があるんです。

私たちの一般的な認識は、2重の意味で映画によって形成されたものなのです。

(目次)

 

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LCVPからオマハ・ビーチに上陸する米第1歩兵師団第16歩兵連隊E中隊
(1944年6月6日、ロバート・F・サージェント撮影)

画像はノルマンディー上陸作戦 - Wikipediaより

 

  • 欧州の戦いは、米国対ドイツの戦いか

欧州での最大の戦いはなに? と聞くと、ノルマンディー上陸作戦を挙げる人が多いだろう。

しかし、そもそも欧州での戦いは、米国対ドイツではない。基本的にはドイツ対ソ連なのだ。ソ連が一番長期間に渡り、ドイツと死闘を繰り広げたのだ。それが証拠に、ソ連の死者は圧倒的。1500万人とも3000万人とも言われている。

もちろん、人命を極力守りながら戦う米軍と、人命を消耗品と見なすソ連の、思想と基本とする経済力の違いはあるが。

東部戦線(独ソ戦)こそ、最大、最長の戦いの場であったのだ。

 

「史上最大の作戦」であるノルマンディー上陸作戦との比較でいえば、投入された兵士は、両軍でノルマンディーが170万人。東部戦線(独ソ戦)では、クルスクの戦いが210万人、バグラチオン作戦も同じく210万人である。戦死・戦傷は、それぞれノルマンディー22万人、クルスク110万人(捕虜含む)、バグラチオン120万人(戦病含む)、である。(いずれもWikipediaによる。人数は、諸説あり、概数。)

 

ところが、私たちは、映画などで、圧倒的に米軍や英軍の戦いを見る。そしてあたかも欧州の戦いは米国対ドイツ、米英対ドイツの戦いが中心、と思い込んでいる。

これと似たような思い込みがノルマンディーにもある。 

 

  • ノルマンディー上陸作戦はなぜ行われたか

ちなみに、ノルマンディー上陸作戦は、ソ連のスターリンの「ソ連だけに戦わせるんじゃなくて西側からも攻めてよ」という強い要請によるもの、といわれている。

そういう面はあるだろう。しかし私は、米国にとってより積極的な理由がある、と考えている。ソ連の要請がなくても行ったのではないだろうか。ドイツを倒すのがソ連だとしたらどうだろう。欧州大陸はソ連のものになってしまうだろう。ドイツは当然のこと、ベネルクス三国、さらにフランスも共産党政権になる可能性がある。

したがって、戦後の世界を考えた場合、欧州の半分を米兵の血で購おう、とルーズベルト大統領たちが考えたとしても不思議ではない。

 

実は、これと逆の現象がアジアでも起きている。米英はソ連の参戦を要請した。その一方で、米国主導の終戦を目指した。

両者ともに、自分たちだけで戦うのは負担が重すぎる。反対側からもつついて、相手の戦力を分散させ戦いやすくしてほしい。その一方で、あらたに作戦したり参戦する側は、相手の思惑とは別に、自らの利益のために参戦するのだ。

 

  • ノルマンディー上陸作戦は激戦ばかりではない

「プライベート・ライアン」その他、ノルマンディー上陸作戦(以下、作戦)を描いた映画は、異口同音に砂浜でのたうち回る米兵を描く。

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Paramount/Photofest/MediaVastJapan

画像はフォトギャラリー - プライベート・ライアン - 作品 - Yahoo!映画より

 

実はこれは、作戦の一部に過ぎない。

上陸した海岸も、5箇所に渡る。ソード、ジュノー、ゴールド、オマハ、ユタの各ビーチである。これらはもちろん現地の地名ではなく、米軍のコードネーム。

そのうちで、2500人から4000人といわれる、最大の死傷者を出したのはご存じオマハ・ビーチ。一方、最小が197人のユタ・ビーチ。ヒトラーの豪語した海浜要塞群「大西洋の壁」は未完成であったのだ。

なお、作戦全体の連合軍側の死傷者(戦死・戦傷)は12万人と言われているので、オマハ・ビーチの死傷者が4千人だとしても、作戦全体の3%に過ぎないことも確認しておきたい。

(ビーチ名と死者数等はノルマンディー上陸作戦 - Wikipediaによる。)

 

  • オマハビーチは犬死にか

オマハビーチの戦闘は、生卵を壁にぶつけるようなものといわれる。徹底した空爆と艦砲射撃でも破壊され尽くさずに残った要塞群からの機関銃掃射が、生身の米兵をなぎ倒すシーンは映画でおなじみだ。

これは想定外か、といえば違う。事前に十分偵察されており、強靱な要塞線が完成した場所としていない場所があることを、連合軍は知っていた。また、海岸の要塞に対して、上陸用舟艇で生身の攻撃をかけることは、米兵の命を消耗することも知られていた。なので、戦史や戦略の本では、情報と戦訓を過小評価した首脳部の過ちであると主張する本もある。

 

本当に連合軍の将軍たちは愚かだったのだろうか。共同作戦につきものの、米英の主導権争いの結果だろうか。

ノルマンディー上陸作戦で流された血の本当の意味はなんだろうか。

 

  • アイゼンハワー将軍の立場で考えてみる

作戦の最高司令官であったアイゼンハワー将軍(アイク)の立場で考えてみる。アイクにとっての優先度はなにか?

言うまでもなく、上陸作戦を成功させ、ソ連の東部戦線に対する西側の「第二戦線」を新設することだ。

上陸作戦では基本的に防衛側が有利である。我々は作戦が成功したことを知っているが、当時のアイクは知らない。失敗するかもしれないのだ。しかしこれは失敗してはならない作戦である。

 

時間は防衛側に味方する。内陸から補充部隊も来るし、攻勢が弱い海岸から強く攻撃されている海岸へ兵力を移すことも可能になる。

一つの海岸に同時に投入できる戦力は限りがある。手元には有り余る兵士がいる。それらを防ぐためにはどうすればいいか。

それは、同時飽和攻撃だ。ドイツ軍が対処不可能な規模で、5つの海岸で同時に攻撃をかけることだ。もちろん多数の犠牲は出る。しかし、それこそが上陸作戦を成功させる鍵である。

 

だから、アイクは鉄の壁を持つオマハ・ビーチにも多数の米兵を投入したのだ。だから、オマハ・ビーチは血の海となった。

極論をいえば、オマハ・ビーチの作戦目的は上陸を成功させることではない。オマハのドイツ軍を釘付けにしておくことが、究極の目的(最低限必要な作戦目的)であるともいえる。

 

  • オマハ・ビーチと沖縄・硫黄島

 大きな目的のために、多数の犠牲を覚悟して作戦を遂行すること。これは、太平洋の戦いにおいて硫黄島や沖縄などで行われたこととも似ている。

日本軍は、硫黄島や沖縄を守り抜けるとは思っていなかった。しかし、本土侵攻を遅らせるために、硫黄島や沖縄などで、多数の人命を犠牲にしたのだ。

 

ともに、大きな目的のための手段として使われた。オマハ・ビーチの血で購われたノルマンディーの成功は、確かに欧州での戦いの終結を早めた。この作戦が成功しなかった場合、最低1年は戦いが伸びただろう。

 

一方、残念ながら硫黄島や沖縄で血を持って稼いだ時間は、日本にとって何の役にも立たなかったが。

 

ノルマンディーの意味を考えることは、映画が伝えない戦争の現実を俯瞰的に理解することでもあるのだ

 

冒頭、「私たちの一般的な認識は、2重の意味で映画によって形成されたもの」と書きました。

一つは、「ノルマンディーは史上最大の作戦」だった、という第二次大戦における欧州戦線全体の認識。もう一つは、「オマハ・ビーチでの死闘がノルマンディー作戦の成否を分ける最大の決定的死闘」という認識である。それは、全くの勘違いではありません。しかし、映画によって作られ、いささか、ゆがめられたものでもあるわけです。

 

私の主張は、流布されている通説とは違います。一方、ある程度戦略や戦史に詳しい方にとっては、常識的な見方かもしれません。そうであるといいのだが、と思っています。

 

  • ノルマンディーは現代政治の舞台

なお、ノルマンディー上陸作戦については、2014年にも70周年記念式典が行われています。そこで、オバマ米大統領が2014年のノルマンディー上陸作戦70周年記念式典で原爆の映像に拍手した、という「通説」が流れていました。私は、それに対して「オバマ原爆拍手論」のエントリーを挙げました。ノルマンディーは、現代政治の舞台でもあるのですね。

オバマ氏は本当に嘘つきの猿芝居か~それは原爆への拍手なのか~ - むのきらんBlog

「オバマ原爆拍手問題」への5つの問い~それは「戦勝国アメリカの視点」なのか~ - むのきらんBlog

 

 

2016.10.1「二重の意味」の説明とオマハ・ビーチの作戦目的について追加しました。

2017.4.2 東部戦線の作戦との比較を追加。文章の配列や表現を見直しました。

大人の見果てぬ夢を追ってほしかった~映画「スターウォーズ・フォースの覚醒」批評~

iTune Storeでオンデマンドのレンタルが始まったので、観ました。(アマゾンのほうが100円安かったことが後で分かりました。画像はアマゾンより。)

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スター・ウォーズシリーズでいつものことながら、チャンバラシーンは、眠い。目を休める時間にするのが丁度良いです。

 

それはさておき、全体としては当然ながら普通に美味しい作品でした。

ほぼ最初の作品(物語では4番目)と同じ構成。なつかしのものが沢山出てきますし、わざと似せた設定だらけです。オールドファンの期待に手堅く応えつつ、スターウォーズを初めて観るような新たな層を取り込むためには、まあ、鉄板の構成といえるでしょう。

 

そういう大人の事情は無視した場合、私が観たかったものは何であったかが分かりました。

以下、若干のネタバレあります。

 

スターウォーズサーガは、家族の物語などとルーカスは言います。しかし本質的にはそれはどうでもよいのです。面白いSF冒険活劇であるべき。初期3部作はそれが存分に出ていました。

 

冒険活劇であるためには、巨大な悪と善、そしてちょいワルが不可欠です。

ルパン三世で言えば、カリオストロ伯爵が巨大な悪、クラリスが善、ちょいワルがルパン三世ですね。

初期3部作は、もちろん、ダースベイダー(と皇帝)が巨大な悪、レイア姫が善、ちょいワルはハン・ソロです。ルークは若頭といったところ。

ちょいワル、という表現は本当は使いたくありません。が、もっといい表現が浮かばなかったので。ハン・ソロはルパン三世であり、寺沢武一描くところのコブラです。レイア姫がいいのは、戦う姫様だからです。美人かどうかは関係ありません。

 

私の注文は、「徹底的に、レイアとハン・ソロが活躍する、大きい大人向けの冒険活劇に徹してほしかった」ということ。

 

いくつになっても夢と理想とそして愛を追う、そういう姿が見たいのです。したがって、レイアは年を経ても相変わらず反乱軍(今回は「レジスタンス」)の頭目。ハン・ソロは、密輸業者。レイアとハン・ソロは一旦結ばれても、やはり、放浪癖で組織にしっくりこないハン・ソロには姫の夫は務まらず、借金だらけの渡世人です。ダース・ベイダーは昇天しちゃったので、新たな強敵は必要ですが、それは誰でもいいでしょう。

 

借金取りに「毎度のその古い手は通じない」といわれたハン・ソロですが、前の手を使えないとして、新たな手練手管を開発してほしかった。それが大人のファンタジーというもの。

 

レイアとハン・ソロが、くたびれてきた肉体にむち打って、その分、老獪な経験と知恵で難局を乗り切る、そんな映画にしてほしかった。

ルパン三世と峰不二子は永遠に歳を取りません。二人とも見果てぬ夢を追っています。レイアとハン・ソロにも、いわば、そういう永遠の子供であって欲しかったのです。

そういうムードはややありましたが、今回は、新たなヒロインが登場しました。そして、ハン・ソロは、なんと次作は出られないことに。新たなヒロイン、それも悪くありませんが、やはり活躍してほしかったのはレイアとハン・ソロです。

  

なので、私の好物の大人の映画は、こういう映画たちです。

(画像はアマゾンより。)画像の大きさが違いますが、どちらもおすすめです。

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 批評というより、感想、いや願望になってしまいました。今宵は、フォースの覚醒を私流に脳内変換しながら、床につくことと致しましょう。

 

 

 

 

一体誰が正しいのか〜映画 「ケイン号の叛乱」批評〜

1954年という大昔の映画だが、非常に面白い。間延びしておらず、あっという間に鑑賞できる。お勧めの映画だ。

海軍ものとして非常に良くできている。企業など、上下関係のある組織の話しとしても、いろいろ考えさせられる。私は、恥ずかしながら鑑賞した夜、企業内での軋轢の悪夢を見てしまった。それだけケイン号の乗員たちに感情移入していたのだ。ケイン号の呪いであろう。 
 

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画像はアマゾンより(アマゾンプライムで観られます)

 

ケイン号の叛乱 - Wikipedia

 
(以下、ネタバレ。映画を見終わった後のお楽しみとしていただければ幸いです。)
(目次)
 
  • キース少尉の描き方は余り意味がない

原作では、新米乗組員のキース少尉の艦内生活をもっと描いているようだ。が、映画の描写は中途半端だ。2時間の尺に入れるために、艦内生活をはしょった一方で、男ばかりの色恋なしの映画に、色気を入れようと制作者が考えたのだろう。
 
上流のお坊ちゃん育ちでマザコンのキースが、海軍生活で成長し、マザコンから脱却し自らの意思でナイトクラブの歌手と結婚する。それを母は祝福する、という描写は、本筋とは関係ない。撮影に協力してくれた米海軍へのごますりであろう。まあ、これは許せる。
 
  • もう一つ、より重要なごますりは、結末部分だ。

 マリク副長(と共同被告のキース)が、無罪判決を勝ち取り、それをお祝いしている最中、弁護士が登場して士官たちをなじる。
 

弁護士の批判はこうだ。

艦長と働くのではなく、艦長を支えるのが士官である。艦長が失敗をして謝罪したのに、謝罪を受け入れなかったのは誤りだ。それが、艦長を孤立させ、嵐の中で助言に耳を貸さなくさせた。一番の悪党は作家の通信長キーファーだ。副長に艦長は病気だと吹き込み、「反乱」を起こさせた。しかも軍法会議では、自分は関係ないと嘘の証言をした。艦長の1割も度胸のない卑怯者だ。通信長たち民間人上がりは、艦長たちが国を守ってくれた。艦長が病気になったのは、その戦争のせいであり、お前らに艦長を批判する資格はない。
 
これに対し、士官たちは一言も反論せず、通信長を置き去りにして宴をお開きにする。
 
  • どちらかが正しいのか

これは、海軍へのごますりである。そして、大きな勘違いがある。それは、Aが卑怯者ならBは英雄だ、ということ。これは、よく使われる詭弁である。
AもBも卑怯者であることも、また、共に英雄であることもあるのだ。
 
確かに通信長は偽証をした卑怯者だ。だが、それは艦長を正当化することにはならないし、士官たちの行為が間違いだったわけでもない。
 
  • 艦長は、当初、決定的な罪を犯した。

それは、訓練中にミスをして曳航索を切ってしまったことを、曳航索が欠陥品であるという虚偽の報告をしたことだ。これは海軍士官としてはあってはならないことだ。
しかも訓練中という実戦さながらの操船を要求される時に、ブリッジからの報告をさせるなと命令し、水兵のシャツの乱れを問題にしている。軍艦乗りが犯してはならないミスである。これらは、艦長にありえないことだとすれば、艦長は病気であると結論づけねばならない。
 
  • 「黄色い染料」事件の本質

そして、「黄色い染料」事件だ。上陸作戦時に日本軍の砲弾に怯えて隠れていただけでなく、命令された地点よりもはるか手前で、黄色い染料を流して、支援するはずの上陸部隊の乗った舟艇に上陸指示を出し、自らはすたこらと逃げ出したのだ。これは明白な敵前逃亡である。
しかも、あと海岸まで3000フィートとの報告に、自ら測距儀を操作して回頭予定の1000フィートであると断定し、回頭を命じている。これも虚偽である。
したがって、あとで士官たちに謝罪したとしても、士官たちは謝罪を受け入れるべきではない。受け入れたら、共犯もしくは、犯罪者の隠蔽に加担したことになるのだ。
この艦長の行為で、上陸部隊の海兵隊員達はケイン号の支援を失い危険にさらされた。死者も増えたかもしれない。艦長を告発すべきは本来は海兵隊員達だ。
 
少なくともこの段階で、副長は艦長が病気であると、ハルゼー提督に告げねばならない。イチゴの盗み食い事件などは、事件そのものとしては全く些細な話である。これは、軍規のためには些細な盗み食いも徹底的に取り締まるべき、という艦長の裁量の範囲だ。
 
なお、イチゴ盗み食い事件については、合鍵ではない単純な盗み喰いであるにもかかわらず、合鍵を探させる行為は異常だ。なので、艦長が理性的な判断力を欠いているという証拠にはなる。
 
  • 艦長が病気かどうかは問題ではない

艦長が病気かどうかの診断は医師の仕事だ。副長の責務として、艦長の重大な軍紀違反を報告、告発し、提督の指示を仰ぐべき事態である。
軍法会議では、副長は医学的知識がないのに艦長が病気だと判断したことを検事に責められたが、ことの本質は医学的知識の有無とは無関係である。
 
  • ハルゼー提督に報告すべきだ

ハルゼー提督が乗る空母に出かける副長、通信士、少尉の3人。下船するには艦長の許可が必要だが、どうやって取ったのかは謎だ。まあ、それは置いておいて。軍規正しく戦争の緊張感あふれる空母に着いてみると、通信士が腰砕けになる。自分達の主張は受け入れられない、「上官に楯突くやつ」というレッテルを貼られ、職業軍人である(?)副長や少尉(大卒の戦時志願による短期促成士官だが)の将来によくない、と言って、告発から一抜けた、となる。それで後ろ盾を失った副長も、腰砕けになり、提督に会わずにすごすごと引き返すのだ。
これは、副長のミス。友人であり同じ階級(大尉)であり、副長の次席のキーファーが一抜けた、となっても、自らの責務として提督に報告せねばならないのだ。
 
たぶん、これを反省した副長が、嵐の最中での「叛乱」の際は、自分が抗命の全責任を持つ、と言い放つ。抗命を咎められて軍法会議にかけられ、無罪となったマリク副長は、謝罪する通信長を「済んだことだ」と許すのだ。
 
自説に固執し、自説に都合の悪い事実や進言を無視する艦長。
それが、嵐の中で、部下の進言を無視する行為につながっている。
 
  • 艦長の軍規違反が問題だ

 以上のとおり、軍人として、艦長として、明らかに不適格な行動をとったわけだから、海軍を守るためには、艦長が病気であるとして届け出ねばならない。病気なのか、一時的で陸上では再現性が不明な発作なのか、それは医者が判断することだ。士官たちが報告すべきは、艦長の軍規違反であり、明らかに非合理的な行動だ。
 
  • 嵐の中で艦長の取るべき行動は

嵐の中で、艦長の行動は正しかったのかもしれない。しかし、それまでの行動は、部下に合理的な疑念を抱かせるには十分だったのだ。
 
艦長が長い海軍でのキャリアを持っていることを、法廷で副長たちは攻撃される。しかし、海軍でのキャリアが長いことと、第一次大戦時の老朽艦の嵐の際の操艦とは別問題だ。長い経験があれば、船にはそれぞれの特性があり、その艦の各部については艦長よりも知っている各部署の進言に耳を傾け、その上で、承認すべきはし、却下すべきはする、それが艦長の役割だ。嵐の中でも艦隊のほとんどは沈没しなかったことも、艦長の判断を支持する材料となっているが、それは精査せねばわからない。他の艦も適切な措置をしたからこそ、多数が生き延びられたのかもしれないのだ。
 
  • 通信長は卑怯者だが、その点で艦長は不適格者であったのだ。

したがって、弁護士の批判は一方的である。軍服は着てはいるものの、後方で護られているのは弁護士のほうであるのだ。民間人上がりであっても、ケイン号の士官達は、戦場で、嵐の中で、生死を賭けた判断を強いられていたのだ。しかも、艦長に逆らうことは、絞首刑になる命を賭けた判断である。安全圏にいる弁護士、検事、などこそが、現場から批判されるべき対象である。(彼らもまた、職務に則って行動しているわけだが、ケイン号の乗員達を道義の面で裁けるものではない。)
 
艦長役のハンフリーボガードの演技は素晴らしい。しかし、これらの踏み込みが足りないがゆえに、本作は、名作というには今一歩であり、面白い海軍万歳映画になってしまった。企業など組織の管理職研修の素材としても良いかもしれない。映画を無批判に受け入れるか、それとも批判的にとらえるか、である。
無能な艦長に生殺与奪の権利を握られた乗員、その絶望的な状況を考えると、私はケイン号の士官達の苦悩に共振してしまう。
 
 
 
 
 
 
 

映画の中だけのハードボイルド・ヒーロー〜映画 「ミッドナイト・ラン」批評~

当時としてはハイテンポの展開だが、現代のテンポから見ると、予想どおりちょっとスローに見える映画。間延びしているわけではないのだが、時間の感覚が30年前と今では異なるのだろう。息もつかせぬ展開、というわけではない。

しかし、それでも愛すべき映画である。ロードムービーとして非常に楽しめる。

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画像はアマゾンより。(アマゾン・プライムでも観られます)

 
以下、若干のネタバレあり。できれば観た後で、余韻を味わうお供にどうぞ。
(目次)
  
  • ハードボイルドとはこういうことだ。

 別れた女房には金をせびるが、数年ぶりに会った娘からの金は受け取らない。
ラストシーンも、普通に考えると矛盾がある。しかし、映画的なハードボイルド・ヒーローは、これでなければならないのだ。
 
マイルールに生きる男(女も)をハードボイルドと定義できるだろう。ある種、ストイックな生き方だ。逆の見方をすれば、マイルール以外に自らのよって立つものがない、ということかもしれないが。
金も、地位も、名声も、女も、家族も持たない。友達といえるのは、賞金稼ぎの仲間だけ。それも騙し騙される競争相手である。
 
こんな主人公から、マイルールを取っぱらったら何が残るだろう。
人生の選択の時に、マイルールを選んだからこそ、今の孤独な自分がいるわけだ。
現実の人間は、マイルールよりも現実を取るだろう。そのほうが幸せな家庭が持てるかもしれない。分かれた女房と警部の家庭のように。
だからこそ、ハードボイルド・ヒーローは、映画の中で生き続けるのだ。
 
会計士のデュークもまた、マイルールに生きる男、ハードボイルドヒーローである。
賞金稼ぎのジャックにつかまって、護送されたあげく保釈を取り消されれば、殺されることがわかっている。だが、減らず口をたたく。彼が正気を保つ方法は、自らのスタイルを保つことだけだ。
 
この作品は、そんなハードボイルド・ヒーローたちの物語である。
 
ロサンゼルス、ニューヨーク、シカゴ、アリゾナ、ロスと舞台はめぐる。契約を守ったジャックだが、最後に契約を破る。他人との契約よりも、自らの契約(マイルール)を守ることを優先したのだ。会計士を護送することは契約上のミッションだったのが、最後には会計士を護ることが自分のミッションとなったのだ。
 
  • 賄賂は受け取らない

契約するまでは、契約金を吊り上げる。しかし、一旦契約したら、とことん契約を守る。たとえ、他が破格の条件を出したとしても。それを受けることは、契約を破ること、「賄賂」なのだ。
 
但し、契約相手が自分を信頼していない、自分を裏切ったと感じたら、躊躇いなく破棄する。
最後に会計士から受け取ったものは、賄賂ではない。賄賂という取引、トレードやディールではなく、友情の証し、グッドウイルなのだ。
 
ちなみに、ジャックの契約は10万ドル、同業者は2万5千ドルである。他のブログでは、ジャックの方が安い契約としているが、勘違いだ。ジャックなりに商売上手なのだ。
 
  • 「最も危険なゲーム」

という、ギャビンライアルの往年の冒険小説にも、似たようなシーンがある。(以下、ネタバレ)。美貌で金持ちのビークマン夫人に「某所に連れて行ってくれたら、新品の飛行機を買ってあげる」と言われ、それを賄賂だとして拒絶した辺地の個人営業パイロット、ビルケアリが、後半ではタダ同然で連れて行く。後で、それを「金持ちへのステップのイロハも知らない行為」だとして、夫人にからかわれる。ただし、拒絶したことで、ビルは夫人の雇われ人ではなく、対等な自立した個人として認められるのだ。
 

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画像はアマゾンより

  • 後味の悪い「ハードボイルド」になっていたかもしれない

もし、クライアントの保釈金融業者が、二股をかけて、他の賞金稼ぎにも依頼しなかったら、どうだろう。会計士はいい奴だが、ジャックは契約を履行しただろう。後味の悪い「ハードボイルド」になっていた。ハードボイルドの物語が美しいのは、かなりタイトな条件があるのだ。
 
  • ぐっとくるシーンがいくつかある。

とりわけ、別れた女房の家を訪れるシーン。やるせない。
そして、もちろん、ラストシーン。
 
それらがぐっとくるための道具立てもいい。主人公が止まりがちな旧式腕時計をしばしば振るのも、いい。別れた女房と娘が、美人でないのもいい(不美人ではない。リアリティのあるキャスティングなのだ)。
別れた女房の再婚相手は、元同僚の警部補(ルテナン)で今は昇進して警部(キャプテン)。しかし、暮し向きは豊かでなく、女房の手持ちは僅か。

  • 映画では血が流れない。

がしかし、ヘリの襲撃者たちは、撃墜された。狙撃者も撃ち殺された(もしくは重症だ)。死人は出ている。血が描かれないだけだ。その点は、ディズニーランドのアトラクションと同じである。
 
  • 賞金稼ぎは実在する

映画では、ジャックがデュークに白昼堂々、粗っぽく手錠を掛けて、連行している。現代で、警察官でもない者がそんなことができるのか、と疑問だった。
しかし、アメリカではできるのだ。保釈保証業者とバウンティハンターについては、以下のサイトが面白い。
 
  • 乗り物マニアにもどうぞ

自動車はもちろん、飛行機(国内線ファーストクラスには、テーブルと花)、鉄道(大陸横断鉄道アムトラック、貨物列車)、長距離バスなど、ディテールが面白い。ハイジャック対策はほとんどない時代でもある。
インディアンの居留地(リザ-べーション・キャンプ)もちょっとだけ出てくる。そこでのおんぼろプロペラ機のシーンも楽しい。
 
  • 80年代のアメリカ

も楽しめる。私はダイナーのシーンが好きだ。ジャックが、出しっぱなしの酸化したコーヒーを注がれるシーン。会計士が紅茶を注文して、お湯とティーパックを出され、パックをせわしなく上げ下げするシーン。路銀がない2人が、モーニングセットメニューを説明され、しかし食べ損なうシーンも。
 
  • ジャックがやりたい「コーヒーショップ」とは

10万ドルの賞金で賞金稼ぎから足を洗って、ジャックが始めたいのは「喫茶店」と字幕に出ているが、「コーヒーショップ」である。1980年代のアメリカには、もちろん日本風の喫茶店やコーヒー専門店は、ほぼない。(ロスのリトルトーキョーにはあったかもしれないが。)もちろんスタバもタリーズもまだない。
 
あるのは、軽食堂であるダイナー、劇中にも出てくるようなトレーラーハウスをダイナーにしたような店である。ただしダイナーは1950年代が最高潮であり、当時はトレンドの店ではない。やや田舎っぽいイメージだ。ダーティーハリーのキャラハン刑事が愛用しているのもそれ。
 
当時、コーヒーショップと言われているのは、日本で言うファミレスである。代表的なのは、デニーズだ。コーヒーをお代わり自由で出すのが特徴。だから、コーヒーショップと呼ばれていた。当時のロスなど、大都市に段々増えていたのがそれだ。ジャックはフランチャイズ店のオーナーになりたいタイプではないので、流行の独立系のファミレス(コーヒーショップ)をやりたかったのだろう。
ちなみに、「コーヒーのお代わり自由」というのは、デニーズが上陸した70年代の日本では、衝撃的であった。決しておいしくはないコーヒーではあったが、それがアメリカの味、アメリカのスタイルだった。
 
日本では、デニーズが上陸するまでは、ドライブインと言われていたタイプだ。
レストランというほど、スーツで出かけねばないような専門店ではなく、カウンター主体のダイナーとレストランの中間的な位置づけである。
 
会計士のセリフも面白い。盛んに「コーヒーショップはリスクが高い。1年で半分が潰れる。止めておけ。」と言う。その通りだ。コーヒーショップは、ダイナーよりも規模が大きく、投資額も大きくなる。当時も、独立系のコーヒーショップは、デニーズなどのチェーン店に駆逐されつつあったのだ。
 
  • ハードボイルド・ヒーローの見果てぬ夢

「最も~」のビル・ケアリの、航空測量会社を興す夢と同じ、見果てぬ夢なのだ。それを実現するには、賄賂を取らねばならない。
しかし、この映画も、「最も~」も、主人公は己を貫き通し、その上で、提示されたものよりも大きな現実的な果実を手にしたことが暗示されている。そこがまたいい。
 
映画とは、リアリティの衣を被ったおとぎ話なのだ、ということを味わえる名品である。今宵はハードボイルドという、見果てぬ夢に浸り切ろう。
 
 
 
 
 

映画の天使がくれた愛すべき愚作〜映画「天使がくれた時間」批評〜

映画で重要なのは、テーマではない、細部である、という事を教えくれる作品だ。

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画像はアマゾンより。(アマゾン・プライムでも観られます)

 

 
以下、重要なネタバレあり。
 
(目次)
 
  • 陳腐なテーマとプロット 

テーマは、愛と家庭が一番、という陳腐なものだ。
 
プロットも、煎じつめてしまえば、成功した独身男ジャック(ニコラス・ケイジ)が、13年前にキャリアのために振った恋人ケイト(ティア・レオーニ)からの電話。おそらく、ずっと同じマンハッタンで暮らしていたのが、パリに転勤することになって連絡してきたのだろう。それをきっかけに、もしあの時、結婚を選んでいたらと妄想し、彼女を今も愛している自分に気づく。そして、空港でよりを戻す。
という、極めてありふれたお話し。それを、映画的に描いただけ。それも天使が妄想を映像化してくれたという、これまた映画にありがちな陳腐な手法で。
 
こう書いてしまえば、身もフタもない話しである。
 
テーマを絶賛する批評が多いが、テーマ(テーゼ)はありふれたものだ。それでも、絶賛するブロガーが多いのはなぜだろう。それは。
 
  • ここでも神は細部に宿った

テーマもプロットもありふれている。だが、しかし、それでも、この映画をくれる時間は「映画の天使がくれた時間」なのだ!
それは、脚本、役者、演出、撮影、道具立て、それぞれが細部において統合された作品世界を成して輝いているからだ。
特に、ケイト役のティア・レオーニは素晴らしい。子供も夫婦愛も一戸建ても、というある意味で欲張りな女性なのだが、仕草の一つ一つ、表情の一つ一つが、どういう反応を示すかな、とドキドキさせる。キュートである。
映画の神は細部に宿る。今回、神は彼女に宿り給うた。これが別の女優だったら、単なる愚作になっただろう。
 
  • トリックスター(狂言回し)の天使 

天使も面白い。天使にまつわるエピソードは、映画のテーマにもプロットにも直接関係ないが、妙な現代的奥行きを与え、天使という存在のおかしさと陳腐さを忘れさせている。
 
パラレルワールドものという点では、この映画もフランクキャプラの名品、「素晴らしき哉、人生!」を踏襲しているが、そういえばそちらでも、天使は天使になりそこないの落第天使であった。
 
  • この映画のテーゼは正しいか

ただしテーマ的に考えると、もし2人がキャリアアップの機会を捨てたことを後悔していたら。もし、ケイトが中年で不恰好になっていたら、などなど、その選択は絶対の正解ではないかもしれないのだ。学生時代の愛が13年後もラブラブとは限らないわけだ。
 
映画でも、空港でよりを戻した2人は、これから結婚し楽しい家庭を持つこともできることが暗示されている。つまり「キャリアか愛か」の2択ではなく、「キャリアも愛も」かもしれないのだ。流行りの言葉で言えば、それこそがワークライフバランスかもしれない。
 
でも、そんなことは暇な時に考えればよい。まずは、映画の天使がくれた時間を味わうとしよう。
 
 
ちなみに、こちらも強くお勧め。画像はアマゾンより。
2ショット写真がカバーに使われている映画はいい映画という法則があるのかな。(単に私が好きなだけかもしれません)

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