むのきらんBlog

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放送作家の意識しない差別~タレントとの「越えてはいけない境界線」とは~

あぎゃ~ 見つけちゃった。

本人が気がつかない妙なエリート意識ってやつを。そこに潜む差別意識ってのを。それは、いったいどこにあるのでしょうか?

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(写真はエントリーとは別人。茜さやさんです。) 

 

ある放送作家のエントリー。いったい、どこが「問題」なんでしょうか?

一般人のブログでしたら、別にスルーなんですが、BLOGOS編集部に依頼された記事で、しかもコメント不可、というなんとも言論サイトとしてのBLOGOSの編集部と書き手の姿勢が残念ですので、あえて取り上げさせていただきますね。 

西原健太郎さんのこのエントリー。

 

blogos.com

 

エントリー自体は、放送作家という仕事に興味のある人、放送作家になりたい人にむけて、ラジオ放送の現場や、放送作家の仕事ってこういうものだよ、ということを教える内容です。タレントに近づきたいから放送作家になる、という発想じゃだめだよって言ってるわけ。それはそれでいいんですが・・・

問題なのはここ。(太字はあたし)

 

たまに「放送作家は、タレントさんと仲良くなれていいね」みたいな事を言われたりしますが、これも誤りです。もちろん現場では仲良くしますが、タレントさんは芸能人であり、我々はスタッフです。そこには越えられない、越えてはいけない境界線があるのです。いないと思いますが、「タレントと付き合いたい、結婚したいから放送作家になりたい」と考えている人は、残念ですが諦めてください。

 

え? これのどこが問題かって???

 

越えてはいけない境界線ってなに?

別にそんなもん、ないでしょうが!

たとえば、タレントとファンの関係で、熱狂したファンがステージに乱入する、っていうようなことはありますよね。舞台と客席には、越えてはいけない境界線があるよね。

でも、スタッフとタレントって、別に越えてはいけない境界線なんかありません。

 

たとえばね、スタッフが、

タレントと結婚しちゃだめですか?

身分が違うんですか? 別に全然オッケーですよね。

実際、いっくらでも例があります。ディレクターとタレントとかもね。もちろん、付き合うのもありです。打ち上げとかの飲み会もありますしね。

 

実は放送業界って、他の「業界」と同じく、けっこう閉じた業界で、関係者の中でくっついたり、結婚したり、って非常によくあることです。一緒に長い時間を過ごして、時にはロケという名の「出張」もして、共通の話題や感覚を持っていて、てなったら、くっつくのはごく自然な話。

 

ついでにいえば、CIA(米国中央情報局)もそうなんだとか。そのほうが秘密が保てるんだって、ホントかしらんね。アメリカのテレビドラマや映画の中では、よくそういう設定がありますけどね)。

 

じゃあ、

越えてはいけない境界線ってないのか?

といえば、それはあります。

公私混同ってやつ。

たとえばね、プロデューサーとかが、売れないタレントを番組で使う代わりに、○○を強要するっていうようなこと。これ、パワハラとかセクハラです。

その境界線は、スタッフとタレントじゃあなくて、「公」(お仕事)と「私」(プライベート)にあるわけ。パワハラってほどじゃなくても、タレントに「ファンなんです」ってサインをもらう、なんていう素人っぽいことは、かっこ悪いし、(陰で)白い目で見られますよね。(でも、ありますけどね)

 

でね。このエントリーの問題はっていうと。

実はすごい差別意識が隠れてるかも

ってこと。

この放送作家さん、ひょっとして、タレントを「特殊な人たち」と思っていない?

自分たちスタッフとは別の「種族」って思っていない?

スタッフとタレントは越えてはいけない一線があるとすると、じゃあタレント同士ならば一線がないのかしら。まーさか、「ドラマでラブシーンを演じた二人は、収録が終わったあとも、その続きをやるのが当たり前」なんて思っていないかしらね。(そういうことになるケースも皆無じゃないけどね)

 

操る側と操られる側

この作家さんの意識は、スタッフである自分たちは、黒子として後ろからタレントを操る存在、っていうことではないかしら。もっと悪くストレートにいうとね。

水商売や風俗系で「黒服」がキャバ嬢などの「商売モノに手を出すな」っていう話があるでしょ、そんな感じ。タレントを「商品」と思っている、ということ。

もちろんタレントは商品ではありません。放送作家が台本を売っているとすれば、タレントは「作り込んだキャラクターを売っている」というだけのことなんです。収録が終われば、スタッフもタレントもありません。両方とも、「生産者」なんですよ。だから、両方の職種の間に、越えてはいけない境界線なんてありません。

 

じゃあ、 

「種族」としての境界線はどこにあるの?

役割というか立場をめぐる明確な境界線は、そこにはなくて、生産者と消費者(視聴者、聴取者など、つまり普通のひと)にあります。

それは、たとえば、飛行機でのCA(スッチー)と乗客、病院での看護師と患者の距離みたいなもの。その組み合わせよりもくっつくケースがはるかに多いのは、航空会社の社員同士、病院のスタッフ同士、です。 (タレントがCAと結婚、ってのはだから話題になるわけ)

 

ついでにね。もう一つ、境界線があります。それは、

「局」の人とその他。

放送関係者といっても、キー局の正社員(「局の人」、「局員」)とその他に大きく分けられます。圧倒的に強い立場にあるのは、「局の人」。なにせ規制業種なので、雇用と収入が安定しています。

一方、「その他」は、放送作家や制作会社の人など。タレントもそこに含まれます。下請け、外注先であり、雇用形態もフリーだったり、非正規だったり。彼らの中で立場が強いのは、ごく一握りの売れっ子だけ。

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差別と気が付かいないのが差別意識ってやつ。

差別する人に、「自分は差別主義者だ」って思っている人は、あんまりいません。それが差別の難しいところ。そこに気がついてほしいな、と思うんです。

 

だからといって、差別だ! 糾弾するぞ! っていうつもりはありません。いわゆる「ポリコレ棒」(ポリティカル・コレクトネス、政治倫理的に正しい主張を振り回すこと)を振り回すつもりはありません。

これくらいの、軽~い差別意識は、実は結構だれにでもあること。本人には、当たり前すぎて、なかなか気が付きにくいことなんですよね。だから難しいんです。

あたしにもきっといろいろあると思います。

気が付きにくいからこそ、ちょっと考えたほうがいいかな、と思うんです。

 

 

なお、もちろん、放送作家にもいろいろいますから、「放送作家は差別意識を持っている」なんて言うつもりはありません。好意的に見れば、この方も放送作家という言葉のプロとして「読者の目線でわかりやすく書いた」のかもしれません。

けどね。言葉のプロだからこそ、きちんと物事の本質を見極めなきゃいけないよ、と思うのよね。

 

西原さんも、直接問われれば「そういうつもりじゃありませんでした。勘違いして放送作家を志望しないようにね、という趣旨のエントリーです」と言われると思います。しかし、この方(か、BLOGOS編集部か)は、あたしがBLOGOSの大きな価値だと思うコメント欄を意図的に閉じているのです。つまり、「放送」と同じ、流しっぱなしで、読者の返信は受け付けないよ、という姿勢なんですね。残念ですっ。