むのきらんBlog

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自由に考えよう

「多数決こそ民主主義」は本当か~決して破ってはならない3つの掟~

「多数決こそ民主主義の根本だ。だから多数決が正しい」という意見がある。国民投票などの直接民主制の信奉者や、与党・多数党の支持者に多い見方だ。

これは本当だろうか?

 

多数決で決めて良いこと、いけないことがある。

正しい多数決は「失敗を修正できる多数決」。失敗を修正できない多数決は、やってはならない。

多数決で損なってはいけない3つの掟。それは「自由」「フェアな教育」そして「平等な参政権」だ。

 

間違った多数決をしないように、気をつけようね!

 

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五十嵐優美さん 足成より 

 

「イワシ党」を例に考えよう

たとえば、「イワシの頭を絶対的にあがめねばならない」という「イワシ教」を教義を持つ「イワシ党」、というのがあるとする。

はじめは新興宗教の泡沫政党扱いされていた。が、「イワシは健康にいい」、「イワシは平和のシンボルだ」などのプロパガンダによって、次第に党勢を伸ばし、ついに、国会の3分の2を占める多数党になり、国民多数の支持のもと、憲法や法律を次々に「改正」していった、とする。

なにせ国民多数の支持があるので、正式な手続きで「粛々と」憲法の改正ができるのだ。すると、どうなるだろう。

やっぱりイワシではなく、マグロがよかった、いやサバがよかった、となった時に、修正できるだろうか。

 

イワシ党を存続させる3つの方法

イワシ党を永遠に存続させる「イワシ独裁体制」を、多数決民主主義で永続させるためには3つの方法がある。「自由、フェアな教育、平等な参政権」のどれかを、多数決で否定すればよいのだ。つまり、憲法や法律を多数決で「改正」すればいい。

 

1.自由を失わせる

憲法や法律が多数決で「改正」されて、「イワシの頭が絶対」しか報道されず、「イワシの頭以外の賛美」や「イワシの頭批判」はネットからも削除され、書いた人は、密かに「処分」されたとしたらどうだろう。

 

言論の自由は、多数決によって損なってはならないのだ。

「ヘイトスピーチ」の議論も、法律による規制やマスコミやネットの「自主規制」が、あまりに行きすぎると、「イワシの頭を侮辱したものは許されない」みたいな息苦しい世界になる。

現在の日本でも、すでにそういう面はあるので、要注意だ。

 

2.フェアな教育を失わせる

憲法や法律が多数決で「改正」されて、「イワシの頭が絶対」という教育を幼少期から刷り込まれるよになったらどうだろう。そうなると、いくら民主的な手続きでも「イワシはイワシだ」「 マグロの頭のようがよい」という主張はナンセンスとして遠ざけられる。

北朝鮮のように国民を特定の価値観で「洗脳」してはならないのだ。

  

3.平等な参政権を失わせる

「イワシ党」は、47都道府県の内で、なぜか3大都市圏以外が圧倒的に強い。イワシ党は選挙制度を変えて、国会を各都道府県から一人の議員を選ぶ47議席の一院制、とした。すると、過半数の24都道府県をイワシ党が比較第一党であれば、イワシ党議員は国会の過半数、24議席を得られる。

下位の24県は、人口比では約20%である。

有権者でみれば、さらに少数。これらの県ではイワシ党、マグロ党、サバ党の3党が立候補し、ほぼ拮抗したとする。とすると、投票者の内の34%でイワシ党は当選も可能だ。投票率が約5割とすれば、有権者の17%。

つまり、日本全体の有権者の20%のうちの17%、つまり極端なケースでは、有権者のうち、4%がイワシ党に投票すれば、イワシ党が議会で過半数を取ることも可能となる。

これは極端なケースである。しかし、選挙制度を変えるとはそういうことなのだ。

平等な参政権を阻害することは、「一票の格差」をつけることである。「一人一票」の重要性はここにある。Aさんは3票、そうでないBさんは1票ではいけないのだ。

 

「イワシ党現象」は実際にある

選挙制度については、たとえば英国下院では、完全な小選挙区制である。だから保守党と労働党が、実際の支持率や得票率以上に議会のほとんどを占めているのだ。

「勅選議員」など、別枠で国会議員を決めることも、歴史をひもとけばいくつも事例がある。また、各県の知事を自動的に国会議員とすることにすれば、上の計算に似た効果が出る。

 

エジプトでクーデターが起きたが、それはイスラム同胞団が選挙で過半数をとり、イスラム法支配という、3つの掟を損なう体制に多数決で移行しよう、ということへ軍部が反発して起きたのだ。クーデターはもちろん民主主義の敵だが、イスラム同胞団もまた、「民主主義の敵」であったのだ。

 

ポーランドでも、排外的なナショナリズムを掲げる政党が政権をとり、言論の自由が封じられつつある。またクーデター未遂が起きたトルコでも、大統領が独裁的権限を得ようという方向にある。大統領の意に沿わない言論機関を禁止したりする方向にある。

 

正しい多数決は「失敗を修正できる多数決」

多数決は、「とりあえずの正解」を決める方法だ。それは間違っているかもしれない。愚かな選択肢かもしれない。しかし、決める必要があるときに、多数決で決めるのだ。

だから、あとで「間違った決定だった、失敗だった」と分かった時に、軌道修正できることが絶対条件だ。どうやって軌道修正するかといえば、また多数決である。

 

イワシ党の事例のように、正当な手続きによっても、あとで修正不可能なように制度を変えることが可能となる。こうなったら、あとで失敗した、と思っても、変えられないのだ。

3つのいずれかが失われた場合、失敗は民主プロセスでは修正できなくなる。つまり「民主独裁政権であるイワシ党」の天下が続くことになるのだ。

PCで言えば、OSやデータの復元、回復ができない暴走状態となるようなものだ。

 

したがって、多数決によっても、これらの3つを阻害してはならないのだ。

多数決で損なってはいけない3つの掟は、「自由、フェアな教育、平等な参政権」である。

 

立場の互換性

この議論は、特定の政策やイデオロギーを信奉するかしないか、ということではない。「立場の互換性」という、普遍的な価値のベースとなる考え方なのだ。

 

多数党・与党の支持者や、世論調査で多数派に属する人は、とかく「多数決が常に絶対正しい!」と思う傾向がある。

そして、多数決は決めた内容が間違っていても、手続きとして正当なのだ。という「多数決の正統性」を持ち出す人もいる。

しかし、多数決が手続きとして正当である、というのは、一定の条件がある。それが今回整理した「3つの掟」だ。

 

この瞬間、多数派であっても、人は変わるもの。たとえば、先の大戦は、当時の日本国民の多数が支持していました。特に、開戦当初の「勝った勝った」という時期はなおさらのこと。

こんなはずじゃなかった、と思った時に、修正できるようにしておくことこそ、正しい多数決の使い方なのです。

 

多数決で決めていいこと

では、多数決で決めて良いのはどういうことだろう。「3つの掟」に触れないことなら基本的には多数決で決めてよいのだ。

たとえば、議員の任期を4年にするか5年にするか、五輪を誘致するかどうか、所得税と消費税のバランスをどうするか、といったこと。これらは、失敗だと思ったら、修正することは可能だ。しかし、もし議員の任期を終身制や世襲制にする、と議決したら、それはあとで戻すことは非常に困難になる。それは掟破りなのだ。

 

なお、議員の任期、政策、税のバランスを例示したが、本来はこれらも政治学や税理論という科学的な知見をもとに決定されるべきだ。その決定に正統性を与えるのが、多数決という手続きだ。それが「科学に基づく政治」である。

 

まとめ

ありがちな「多数決は常に正しい、なんでも多数決で決めて良い」ということにはなりません。多数決で決めて良いこと、いけないことがあります。

正しい多数決とダメな多数決があるのです。

 

多数決が正しいのは、失敗を修正できる場合のみ。だから多数決には、多数決では損なってはならない3つの掟があるのです。

それは、「自由、フェアな教育、そして平等な参政権」。

 

この3つを大事にして、多数決の罠にはまらないように気をつけようね!

 

 

(注)都道府県の人口については、都道府県の人口一覧 - Wikipediaに掲載されている、2010年(平成22年)国勢調査のデータを元に計算。