第一大戦中に起こった、100万人とも言われる、トルコによるアルメニア人の虐殺。
アルメニアは、大規模な虐殺があったと主張。
トルコは、戦時の混乱による死者はあったが、大規模な虐殺はなかったと主張。
2016年6月2日、ドイツの議会は、「大量虐殺があった」と認定する決議をしました。
一方、日本のネットでは、「大虐殺(ジェノサイド)はなかった。アルメニアのねつ造だ!」という意見が多く見られます。
いったい、どちらの主張が正しいのでしょうか。
私の主張は「わからないものをわからないとして受け入れよう」です。
1915年4月、オスマン帝国軍の武装兵により追い立てられるアルメニア人
(目次)
- なぜこの問題が我々にとって重要か
- 考える要素を出してみよう
- 証明の難しさ
- 「あったこと」を被害者側が証明することは困難。
- 「なかったこと」を加害者側が証明することは困難。
- 挙証責任はどちらにあるのか。
- わからないことには謙虚になるべき
- 当事者になると、受け入れられない
- 非対称的な問題
- それこそが対立を深める原因
- トルコは「もしもそういうことがあったら、それは、人類として繰り返してはならないことだ」と言えばいい
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なぜこの問題が我々にとって重要か
この事案は、日本には直接かかわりがありません。遠い国の昔の出来事です。しかしこれは、日本が抱えている慰安婦問題、南京大虐殺問題などの「歴史認識」をめぐる問題とも関係します。
また、原爆投下の決定要因についても、なにが最重要の要素だったのか、本当にアメリカ兵の命を救うために、戦争を早期終結させるためだったのか。それとも、ソ連への牽制が最重要の目的だったのか、歴史家の間でも見解が分かれています。
だから、この問題を考えることは、日本の歴史問題を考える上でも重要なのです。
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考える要素を出してみよう
この事件について、わかっていることを整理してみます。
・事実関係は、完全に明らかになっていないし、不明です。
・不幸な死者が出たこと自体は、トルコも認めています。
・虐殺があったとして、組織的なのか。どの程度の規模なのか。分かりません。
・両者とも、証拠が十分でありません。
・双方が、思い込みによる主張をしているとも考えられます。
・現在生きている人たちには、責任がないことは明白です。
ということで、つまりまさに過去の歴史的事象ということです。
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証明の難しさ
両者とも、証拠が十分でありません。
なぜかというと、次の状況があるからです。
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「あったこと」を被害者側が証明することは困難。
被害者は、抑圧され、弾圧されていたわけ。なので、きちんと記録を取ることは非常に困難です。断片的事実を口伝えに残すことができても、組織的命令の有無、虐殺の規模といった全体像を被害者側が把握することは、非常に難しいのです。
したがって、組織的な大量虐殺で○○万人が殺された、という主張は、証明しにくいものです。それを唯一の事実として主張するというのは、むしろ根拠があいまいな断定に近いものになりがちです。最低限、虐殺の人数については、幅で示すのが科学的な態度でしょう。よほどの証拠がある場合は別として。
それでもおおよその幅を把握することはできます。当時の人口より多くの虐殺はできません。当時の武力などの限界もあるでしょう。それらから、幅を推定することは合理的です。
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「なかったこと」を加害者側が証明することは困難。
一方、加害者側は、虐殺が皆無であったことを示すことはこれまた困難です。戦時には一定の混乱がつきものです。したがって、違法な殺害がゼロ、ということはまずありません。(国際法、国内法ともに変遷があるので、何が違法か合法かの問題もありますが、そこは置いておきます。)
また、違法性を認識した命令があった場合、指示は口頭でなされたり、証拠書類は処分されることが通例です。日本の場合も、終戦前後に大量の文書がにほんぐんや政府関係者によって焼却されました。それが、「なかったこと」を証明することを難しくしています。
したがって、「なかったこと」を完全に証明することは非常に難しいのです。もしもできるとしたら、全ての公文書を保管しておく公文書館を厳格に設置し、そこには他の違法行為も記録されている。という状況です。(最近のアメリカなどは、そういう方向にあります。なので、問題がいろいろ明るみに出やすくなってきたわけです。)
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挙証責任はどちらにあるのか。
そもそも、どちらが証明しなければいけないのでしょうか。裁判であれば、民法、刑法それぞれにルールがあります。たとえば刑法であれば、有罪であることを証明するのは、検察側の責任です。被告側は、基本的には無罪であることを証明する必要はありません。それを「推定無罪の原則」といいます。
しかし、この手の国家間の問題の場合、きちんとしたルールがありません。(両者が国際司法裁などの国際裁判機関で決着をつける場合は別として)。したがって、挙証責任をめぐって、両者の主張が交錯し、泥仕合になりやすいのです。
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わからないことには謙虚になるべき
真の問題は、「わからないことに対して、謙虚さが不足」、ということではないでしょうか。
人間の脳は、「わからないこと」をそのままにするのが苦手にできています。敵か味方か、獲物かどうか、食べられるか食べられないか、それを瞬時に判断する、という動物としての脳神経メカニズムがあるからです。(これをヒューリスティックといいます。)
わからないことを一々立ち止まって考えていたら、生きていけないからです。
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当事者になると、受け入れられない
我々第三者でさえ、トルコかアルメニアか、どちらかに軍配を挙げてしまいがちです。まして、当事者になると、種々の感情や利害が交錯します。なので「わからない」という状況が受け入れられなくなりがちです。被害者やその遺族は、被害が大きかったと考えがちです。加害者側は、被害が少なかった、限定的だったと考えたいものです。
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非対称的な問題
また、こういう問題は、非対称です。つまり被害者側が攻撃者、加害者側が受け身にならざるを得ません。この場合は、トルコ政府はどうしても受け身側にならざるを得ません。
受け身になるがゆえに、攻撃的になり、相手を全否定しがちです。「虐殺はなかった」と証明できないのに、「虐殺はなかった」と主張するのはそういうことです。
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それこそが対立を深める原因
歴史は、どんどん闇の中に消えていきます。したがって、「わからない」ということを認めて、きちんと証拠がある「わかっていること」と峻別する。その上で、「わからないこと」については、「わからない」という前提で、「もしもそういうことがあったら、それは、人類として繰り返してはならないことだ」、ということを共有する、ということではないでしょうか。
ねつ造は重大な不正です。そして「何がねつ造で何が真実か」は、なかなかわからないことが多いのです。ねつ造であることの証拠がない場合、安易に「ねつ造だ」と否定することは、対立を深めるばかりです。お互いに証拠を出し合い、わかっていることわかっていないことを共有する態度こそ、相互理解と建設的合意への近道です。
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トルコは「もしもそういうことがあったら、それは、人類として繰り返してはならないことだ」と言えばいい
トルコ政府の道義としてこのような受け止めのしかたをしたら、賛同を得やすいのではないでしょうか。
一方、アルメニア側も、証拠がはっきりしないものは、そうと認めた上で、主張する、ということが公正な態度です。
交渉ごとは戦いなのだから、大きな声で主張したほうが勝つ、という側面は確かにあります。しかし、それはフェアではありません。フェアでないものは、相手の道義を批判することはできないのです。そして、公正な態度が積み重なっていくと、信頼、信用につながります。
「わからないこと」を「わからないもの」として、そのまま受け入れることが大切ではないでしょうか。
なお、賠償等の法的問題については、また別問題です。今回論じたのは、あくまで事実認識と謝罪の要否といったことです。ただし、賠償などについても、ある程度はこの発想は通用するのではないか、と考えます。
賠償論の前に、その前に横たわる感情的な溝をまず飛び越えることが大切だからです。