むのきらんBlog

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自由に考えよう

北京やデリーの大気汚染をどうとらえるか

・北京の大気汚染が中国の原発推進を加速させる

・牛の糞や野焼きの大気汚染は「自然で無害」か

・大気汚染は「彼らが選んだこと」なのか

 

そうだろうなあ、というエントリーでした。 インドはさておき、中国の件で興味深いと思うのは、権力者が居住する北京の大気汚染が危険レベル、ということ。権力から遠い辺境ならば、放置されるだろうが、北京とは。 空調完備のビル内に閉じこもっているのだろうが、それでも対策に本腰を入れてくるだろう。

 

対処療法的に、工場の稼働停止等を行ってはいる。そして電気自動車を振興し急増させているが、その電気をつくる発電所がまた、大きな汚染源の一つになっているわけだ。 PM2.5問題とは別に、CO2増大による気候変動激化もまた中国をも直撃するだろう。たとえば砂漠化であり、巨大災害であり。 したがって中国は両方の面から、今後一層原発に力を入れるだろう。先に合意した英国をはじめ、原発プラントの輸出も含めて、戦略的に。(中国での運転中、建設中、計画の総和は、なんと273基とのことです。)

 

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toryanseさんのコメント

ウランの残存量が、急減しそうですね。>

・・・そうですね。可採量は100年と言われていますが、短くなるかもしれませんね。 いずれにしても、高速増殖炉などの核燃料サイクル(リサイクル)計画を再度進めるべきかとも思います。 それには、いろいろ批判もあるのは確かです。35年前の建築物たる「もんじゅ」を云々するよりは、世界の最新の知見に基づいて、再度仕切り直すのがいいのではと思うのですが。 科学者を中心に、透明性ある議論をすべきでしょうね。(イデオロギーに染まった科学者もいるので難しいところですが。)

 

重要なことは、過去の失敗などを貴重な糧として、その上で、最新の知見をベースに科学的な議論と実験、検証を積み重ねることでしょう。 それは、再生エネルギーの開発にももちろん言えることです。(それと同じ地平です。)

 

科学的にトンデモなもの、たとえば「永久機関」などは論外であり、それは科学的議論で論破されるわけです。一方、原理はよいが、過去の取り組みでは上手くいかなかったものは、葬り去るものではないでしょう。 最近商品化されつつある新技術も、原理としては100年前に言われていたものも多数あるわけですし。

 

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yahoo user 5805bさんのコメント

<野焼きや牛糞燃料なら、CO2には関係ないし、エコなのでは?>

・・・基本的にはそのとおりです。 ただし、それに伴う微粒子などCO2以外の大気汚染は別問題です。 以下、ご参考まで。

 

持続可能な方法や環境下ならば野焼きも牛糞燃料も「エコ」でしょう。一方、野焼きや過牧畜など過利用の結果砂漠化したらエコではないわけ。 ついでにいえば、昔からやっていたことイコールエコや人体に問題なしではありません。 たとえば環境の過剰利用による砂漠化は昔からある重大問題です。また、主に屋内の話しですが、伝統的な燃料のススや排ガスは、各種疾病を招き、後進国の寿命が短い要因の一つであるわけです。

 

yahoo user 5805bさん のコメント

<「野焼きや過牧畜など過利用の結果砂漠化したらエコではないわけ。」これはそのとおりです。 が、インドや東南アジアの野焼きと、中国で行われていることをごっちゃにしすぎです。>

<野焼きの煙害でよく問題になる東南アジア等で、「砂漠化」が問題になっいるとは聞きません。これは、畑をローテで毎年変えているから。>

・・・貴殿のおっしゃる違いは理解しているつもりです。私の表現は極めて一般論です。 貴殿の表現が一般論に見えたので、「エコ」の基本論を共有したかっただけです。貴殿はそこは理解されているということで失礼しました。

 

さて、インド、東南アジア、中国、これらの事象は別々でしょう。インドの事象も、いろいろありますので。野焼きと牛糞も別問題でしょう。野焼きの方法にもよるでしょう。 貴殿は熟知しておられるならば、無用なコメントですが、私が申し上げたかったことは、それは「持続可能な方法かどうか」ということです。

 

東南アジアでの野焼きは確かに砂漠化にはつながらないでしょう。伝統的にやられていたことも事実です。しかし問題は今の規模と方法です。報道されるところでは、エコサイクルとして持続可能な方法ではない、ということです。報道が間違っている可能性は否定しませんが、学会もそれがコンセンサスでしょう。

 

yahoo user 5805bさん のコメント

<むのきらんさんや、日本人に影響のある話でしょうか? 日本では、長命= 善 という認識ですが、寿命が短いことは悪なのでしょうか? 伝統的な生活をすることで、短命になることを選択しているのなら、それは、その民族なり集団の選択でしょう。>

・・・それはご本人たちに聞いて見られるといいと思います。たとえば電気ガスのない村で、暗い中ススだらけで暮らしている人たちに実物を使ってみせて、電気やガスはいらないか、と聞いてみられると有用な知見が得られるでしょう。

 

「短命」が個人の選択であれば、それは基本的には尊重すべきです。しかし、そもそも人権とはなにかを分解し階層化していくと、長寿が基盤的な善ということになります。さらにその人権の基盤たる、持続可能性が重要なことはもちろんです。

 

「民族や集団の選択」というのは、誤解を招きやすい整理でしょう。 それは、民族主義集団主義の批判を免れ得ません。個の尊厳、個の人権よりも、民族や集団の判断が優先する、という主張に外ならないからです。

 

もちろん、集団の判断を優先せざるをえない状況があることはもちろんです。が、それは人権に還元されてはじめて正当化されるべきものです。そうでないと、貴殿自体が他の多数によって無制限に制限されることを受け止めることになります。